小説家・中村文則、過去の凄惨な出来事を“あえて”書く理由とは

2020.6.4
最新長編小説『逃亡者』の著者・中村文則さんに、作品に込めた思いを伺いました。

突然追われる身となった男。逃亡の果てに見える景色は?

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第二次世界大戦時、悪魔の楽器と呼ばれるトランペットがひとつの作戦を成功に導いた。時は現代、その楽器を手にした一人の青年が、謎の人物や宗教団体に追われる身となる――中村文則さんの最新長編『逃亡者』は、謎と歴史と記憶が多層的に構築されていくスリリングな一冊。

「数年前、ドイツのケルン文学祭に参加して翻訳者と楽器が好きだという話をしていた時に、“人を洗脳する楽器”というモチーフが浮かんだんです。それがはじまりでした」

元ジャーナリストの山峰は、いわくありのトランペットを抱き、失望のなかケルンに流れつく。そこに現れたのは、謎の男、“B”。彼は山峰に奇妙な選択肢を与えるのだが…。

「“B”は本当に存在しているのかも分からない、謎めいた存在にしたかった。得体の知れない人間が一番怖いので」

他の追手も現れ、彼らから逃れるために山峰は再び旅立つ。

「社会に馴染めず外れてしまった人間が、逃亡者という特殊な存在になったことでさまざまなことが発生していく。ただ、普通このタイトルでそうした話だと逃げまくる話と思われそうですが、それだけでなく、主人公は過去と向き合うことになっていく。そこからまた展開があるんですけれども」

逃げる山峰のパートのほか、作中には創作や対話、手記といった形でさまざまな物語が交錯する。「ドストエフスキー的なポリフォニー(多声)を取り入れました」と中村さん。

「作者とは違う考えもあえて書きこんで、意見を戦わせるということもやっています。たとえば以前書いた『教団X』では、宗教を駄目なものとして書く傾向がありましたが、今回はできるだけ寄り添おうとしました。僕は宗教が政治をゆがめていると知っていますが、一辺倒に“こういう宗教は駄目だ”と言っても届かない人たちがいる。だから今回は、人生にすごくダメージを受けた時に宗教にはまることを否定できるのか、という部分も書きました」 

他には、恋人だったアインの日本での苦難や彼女の故国ヴェトナムの物語や、山峰のルーツである長崎の、潜伏キリシタンや原爆についてもページが割かれている。

「日本の外国人の労働問題は書こうと思っていました。それと、ヴェトナムの歴史を見ると、作中でも書いたように、人々が強国に歯向かってきたんですよね。それがすごくいいし面白いなと思って。長崎については、実は僕のルーツでもあり、いつか書きたかったことなんです」

そして、トランペットが使用された太平洋戦争の戦地の惨状をしたためた手記の中身――。

「僕はよく小説内に手記を挿入しますよね(笑)。一応、毎回書き方を変える努力はしていて、今回は当時の言葉をそのまま書くと読みにくいので、フランス語からの日本語現代訳という設定にしました。今は明治と昭和初期の劣化コピーが流行っていて、第二次大戦の前と似ていると感じています。そのことを意識して書きました。手記に書かれた慰安婦に起きた凄惨な出来事は、史実をもとに書いている。読んで“知りたくなかった”という人もいるかもしれないけれど、過去を直視しなければ、この先改善も成長もないと思う」

山峰もまた、かつて出版した書籍で第二次世界大戦時の軍部と財閥の癒着に触れたところ、“知りたくなかった”という感想をもらって落胆した過去がある。

「人々は社会が公正で安全であると思いたいから、そうでないことが書かれてあると不安になり、別の理由をつけてその本を批判したり、“知りたくなかった”と思ってしまう。実はこの感想は、僕が『教団X』を書いた時の反応をほぼそのまま書きました。社会には問題がないと思いたい心理が行きすぎると、何か被害者が出た時、社会構造がではなく“お前に落ち度がある。お前が悪い”と個人批判する社会になってしまう。だから、僕の中には、みんなが求めている安心できる物語を提供することが本当にいいことなのだろうかという根本的な問いがあります。僕はあえて、知りたくないような事実も書きながら、いかに物語として面白いものにするかを考えている。それが物語を作る側の姿勢だと思っているんです」 

これまでに描いてきたモチーフや問題意識も盛り込んだ今回の大作。

「『教団X』よりももっとグラデーションを持たせて、いろんな問題を詰め込み、僕の集大成的な作品になったと思います。普段社会問題に興味のない人でも読めばいろんなことが分かるだろうし、保守的な人でも読めば“ああ、そういう考えもあるのか”と分かってもらえると思う」

いつでも人間社会への警鐘を鳴らし続けている中村さん。

「以前から、これからの世の中はどんどん悪くなっていくと感じていましたが、新型コロナウイルスの影響でその速度は上がるでしょうね。差別をする傾向や、責任を困窮する個人に転嫁する動きがさらに強まっていくと思います。そういうタイミングで、この本を世の中に出すことは意味があると思っています」

中村文則『逃亡者』 人生に倦んでドイツのケルンに流れついたジャーナリストの山峰。だが、“悪魔の楽器”と呼ばれるトランペットを密かに携えていたことから、追われる身となる。逃亡の中で、彼が向き合うものとは。幻冬舎 1700円

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なかむら・ふみのり 1977年、愛知県生まれ。2002年『銃』で新潮新人賞を受賞しデビュー。’04年『遮光』で野間文芸新人賞、’05年『土の中の子供』で芥川賞、’10年『掏摸〈スリ〉』で大江健三郎賞、’16年『私の消滅』でドゥマゴ文学賞を受賞。

※『anan』2020年6月10日号より。写真・土佐麻理子(中村さん) 中島慶子(本) インタビュー、文・瀧井朝世

(by anan編集部)