左から、HISASHIさん、TERUさん、TAKUROさん、JIROさん

激動の平成の音楽シーンを駆け抜け、今もなお走り続けるGLAY。4人で音楽を紡ぎ続ける強さと温かさの神髄は、どこにあるのか。30周年のフィナーレを迎える今、GLAYがGLAYである理由に迫ります。

――’90年代から今に至るまで、日本の音楽シーンを引っ張ってこられたGLAYのみなさんですが、デビュー当時はここまでの活躍や成長を想像されていましたか?

TERU:当時の先輩はLUNA SEAやX JAPANだったんですが、俺たちのようなポップ感のあるバンドが長年やっていけるとは、そんなに思っていなかったんじゃないかな。

JIRO:長く続くバンドは、サザンオールスターズやTHE ALFEEなどの特別な人たちって印象でしたね。

TAKURO:俺らが10代の頃に、ストライクに影響を受けたバンドはたくさんあって、例えばBOØWY、レベッカ、THE BLUE HEARTS、RED WARRIORS…。でもことごとく解散してソロで活動し始めて。GLAYのようなスタイルのバンドは、30歳以降の活動は見えなかった時代でした。だから30周年を迎えて一番驚いているのは、俺たちかもしれないね。

HISASHI:本当にそう。だって結成した10代の頃なんて、まだ子供じゃない。商業的な音楽とかを嫌うような時期で。

TAKURO:のちのち俺たちすごい商業的になるのに(笑)。

HISASHI:割と早めにね(笑)。でもあの頃のパッションって、やっぱりあの当時にしかなかったよね。今みたいにSNSがあったりインターネット環境が整っていたら、函館から上京してなかったかもしれない。情報がなかったから、怖いもの見たさみたいな感じもあって決断できたのかなと。

TAKURO:俺らは東京さ行くだ、津軽海峡渡って、って(笑)。

――「GLAYのようなスタイル」がなぜ長続きしないと?

TERU:俺たちは高校時代からGLAYをやってて、ポップな曲もロックもやりたい。それでいて俺は長髪にメイクをして、スカートをはいてて。上京して、まだデビューしてない頃にライブハウスを回っていたら「なんでそんな格好でポップやってんの?」「その格好じゃ出せない」と言われていました。すごく不思議でしたけど。

TAKURO:見た目はバリバリのビジュアル系なのに「HOWEVER」とか「BELOVED」みたいな優しい曲をやるという発想が、東京の音楽シーンにはなかったみたいだね。でも好きな格好で好きな曲をやりたい。何が悪いの? って。それで上京2年目ぐらいで、志を共にするようなバンドを集めて、自分たちで企画を立ててライブをやるようになった。だって両方やりたいんだもん。そのキャラクターを守ってよかったと、今は思いますけど。

――そこで折れたり、巻かれたりしなかったのはすごいです。

TAKURO:まあ一瞬やさぐれたかもしれないけど、でも、それらも全部、作曲の糧になったので。それに一番は、やりたくないことをやってても楽しくないからなんですよ。函館の小さなスタジオでやりたいように音楽をやって、その充実感が原動力となって上京したわけだから。むしろこれは個性でいいんじゃないかなと。

――尖っていた時期も?

TERU:見た目は尖ってると言われてましたが、実際はおおらかな函館出身のバンドですよ。

――今も変わらないですね。30年間の中でのターニングポイントや、印象的だったエピソードを教えてください。

TERU:やっぱり20万人ライブ(「GLAY EXPO’99 SURVIVAL」。単独アーティストによる有料ライブの観客動員数は国内史上最大の20万人)です。あれだけ多くの人の前で歌う機会はもう一生ないと思う。より遠くにいるお客さんに歌を届けるにはどうすればいいんだろう、という課題や反省点も多く見つかったので、その後は違う形で「GLAY EXPO」をやっていくことになるんですが、あのライブをきっかけに、歌に対する向き合い方が変わったと思います。

――またあの規模のライブは…?

TERU:もうやらないですね(笑)。もし嵐になって中止になったらそれだけの人たちをどうしようとか、炎天下でも大変だし。考えるだけでもドキドキしますから。

JIRO:リスクがあるからね。でも誰かが20万人ライブをやったら観に行きたい(笑)。

――なるほど(笑)。JIROさんのターニングポイントは?

JIRO:僕は’00年。当時は年間100本ぐらいのライブをやっていたし、メディアの露出も含め忙しさのピーク。20代の僕は序盤で心が折れて、投げ出したくなってしまった。でも、心は98%折れてたんですけど、メンバーに弱音を吐いたことで全て解決された感じがありました。「大丈夫だよ。大変だったら活動休止しよう」と言ってもらえたり、メンバーの背中を見たりして残りの2%で救われたんです。たった2%がものすごくデカかった。

TAKURO:そもそも自分たちの中では、’99年の大晦日の紅白が終わったら解散しようという話はしていたんです。年が明けてバラバラになって、でもまた新しいバンド名でやるのってすげえワクワクするみたいな話もしていて。

――解散したかった理由は?

HISASHI:一番売れていて、一番忙しかった’97~’99年って、ちゃんと音楽を作りたかったのに他の仕事も増え続けていて苦痛で、バンドやってて面白くなかったんです。「HOWEVER」なんて半日ぐらいでできたんですが、本当はもっと時間をかけてゆっくり楽曲を作りたかった。

TAKURO:「GLAYのためなんだ」と周りから言われたら、そうかな? と納得しないまま仕事を引き受けていました。

HISASHI:CD&カラオケバブルがすごくて、とにかくGLAYという表記が入ったら売れるから、曲になってなくてもイントロだけでもちょうだい、みたいな。

――すごい時代です…。

TAKURO:でもキャパシティオーバーになったらそこでやっぱり潰れかけますよ。20代だと、周りを説得する言葉も知恵もなくて。だったら一人でやっているほうがマシだって思いますよね。

――でも、TERUさんが「GLAYを辞めてソロになる。TAKURO曲書いてよ」と言ったらHISASHIさんが「じゃあ俺ギター弾く」、「じゃあJIROもやってよ」と解散危機を回避したのは有名な話ですね。

TERU:そう、「じゃあGLAYでいいじゃん!」って(笑)。

HISASHI:リアルな話(笑)。ちなみにその’00年代は、インターネットインフラが整った頃で、海外で(デジタル音楽配信サービスを提供する)リキッドオーディオやMP3が流行っているのを知り、これは音楽の伝わり方が大きく変わるのではないかという兆しを感じていました。レコードからCDになり、さらに配信と、音楽の形態が大きく変わる時代において、俺らはその変化に付き合いながら活動を続けてきて。その中で、再現できないものの尊さ、ライブの大切さを改めて実感するようになった。だから、’00年代を過ごしたことは大きいです。

TAKURO:HISASHIは、早いうちから「音楽は無料になる」と言ってましたから。

HISASHI:うん。それなのにCDに(コピー防止の)コピーコントロールをつけ始めた’00年代。俺たちは争ってたね。

TAKURO:この音楽性と当時は合わないと言われていたビジュアルにめちゃくちゃこだわりを持っていて、俺らのスタイルには誰にも触れさせないと心に決めて活動していたけど、こと新しいテクノロジーに関しては、HISASHIを中心に常に新しい情報や将来性を読んでいて。コピーコントロールをつけると明らかに音質が悪くなるし、そんなものが長続きしないのはわかっていたんです。

――効率や利便性は必要ないと?

HISASHI:そうです。俺らの音楽はレコードでもいいと思ってたし、稚内の人たちまで伝わればいいかなと思っていました。

TAKURO:それが今となっては、ブラジルの人にまで。どこまでも飛んでいっちゃうよね。

HISASHI:GLAYのファンはまだCDで聴く人が多いと思うんですよね。もうアーティストグッズみたいな感じにはなっていると思うんですけど。

――デジタルではなくCDで聴きたいという人もいますよね。

TAKURO:GLAYの歴史を作ったのは、選択肢の提示でもあるんです。ファンにはそれぞれにいろんな考え方や楽しみ方があるんですが「私は他には興味がなく、GLAYしか聴きません」という声を聞いた時に、GLAYの曲しか流れず、GLAYの活動しか伝えないアプリがあればいいと思いついて。その代わりデモテープ段階や、バックステージの映像まで何から何まで公開するという。

――先駆けてますね。

HISASHI:他にも「G‐DIRECT」っていう、GLAY版Amazonみたいなものも作ったり。古いものはもちろん大事にしながら、新しいものをちゃんと取り入れるという考えなんですが、どこかが突出しているのではなくフラットに、ちゃんと目が行き届くことが大事なんじゃないかな、音楽って。

TAKURO:だから電子チケットだけじゃなく、記念に保管したいという人のために紙のチケットを発行する方法を考えたりも。それを続けることで、ファンの人たちからの信頼を得られるようになり、スムーズな活動ができるようになったと思います。

――’05年にマネジメント会社から独立して、全ての運営を自分たちでやるという選択をされて今に至りますが、それも30年続けられた秘訣でしょうか。

TAKURO:俺のターニングポイントはやっぱりそれです。独立は、GLAYの個性がより発揮される環境を求めて自分たちで舵を切ることにしたんですが、AmazonやiTunesにより配信がメジャーになりつつある時代。その変化の全てを、おもちゃを与えられた子供みたいに4人全員が楽しめたし、GLAYにとっていい環境整備ができたことでその後の20年が充実したと思います。

――その柔軟性も素晴らしいです。4人はとても仲がいいですよね。

TERU:そうですね、と言うのも恥ずかしいけど(笑)。でもやっぱりTAKUROが中心となって3人を引っ張ってくれています。悩んでいる人には真っ先に「どうした?」と寄り添いますから。JIROの’00年の話もそうだったけど、TAKUROは「もし本当にキツかったら辞めてもいいんだよ」と言えるリーダーなんです。

――TERUさんにも経験が?

TERU:’98年、「HOWEVER」がヒットしたのはすごくありがたいことですが、本当に忙しくて。ある時、寝ずにMステで歌ったら声が出なくて、本当に悔しくて。テレ朝のトイレで一人でシクシク泣いてたらTAKUROが来て「大丈夫、大丈夫。気持ちで歌えばいいよ」と言ってくれたことは今でも覚えています。

JIRO:それトイレじゃなくて別のところにできなかった? 楽屋とか(笑)。

TERU:あははは(笑)。でもトイレだからいいんだよ。

JIRO:TAKUROはメンバーのポテンシャルを引き上げるのがすごく上手。かたやTERUは、いきなりとんでもないデカい目標を持ってきます。例えば、10年前のファンクラブライブで「10年後にベネチアでライブがやりたい!」と突然言い出して、僕たちはきょとんで(笑)。でもそこから着々と準備が始まって、規模はまだわからないですが来年開催することは確かなんです。そこに向かって全員でモチベーションを高めてきたのもあって。だから活動していて飽きないんですよね。

TERU:目標を立てるだけじゃなくて、自分が先に動き出したいんです。だから公言した翌年、一人でベネチアに行って、お祭りがあるのは知っていたからそのサン・マルコ広場の舞台に上がり、あらかじめ連絡していた現地のカルテットと8曲ぐらい歌って。そうしたら運営の人たちがすごい喜んでくれて、その翌年はTAKURO、さらにその翌年はJIRO、’20年にはHISASHIと行って。そうやってみんなから協力を得ながら実現に向けて頑張っています。

HISASHI:あと、仲がいいというよりも、効率がいいんでしょうね。1人ずつに送迎車をつけるのではなく、1台で行って車の中でミーティングしようとか。

――車1台で? 順番に家を回って拾うんですか?

TAKURO:それは俺が’90年代に決めたルールなんです。1人ずつに個人マネージャーやヘアメイク、送迎車だなんだって、もう大名行列。そうなるとメンバー同士の会話もなくなって、気持ちが離れていくのは目に見えていた。その点1台にすると、誰が今どんなものに興味があって、どんなことが心配で、どんな音楽を聴いているかがわかるんですよね。だから新幹線も横並びです(笑)。

――それはすごい!

HISASHI:TERUなんて酒だけじゃなくつまみも用意してくれますから。「手を使わなくても食えるだろ」って、1人1個、細長いベビースターを(笑)。

4人:あははは(笑)。

――今でも送迎車は1台ですか?

TAKURO:それが、1台だと最初に俺、そのあと3人をピックアップして現場に行き、帰りは3人を降ろしたあと、最後に俺が送られるんです。だからやっぱり2台にしようってことになって今は2台体制です(笑)。あと、本当は20代なんて個々の自我が確立して、バンドなんていう集団をやっている場合じゃないんですよ。でも支え合って慰め合って、なんとかその時期を越えてからはもう仲がいい。20代のエゴをうまく飼いならせたことがよかったのかもしれません。いまだにメンバーの誰かと週3~4日は一緒に飯食ってますから。俺はいま家族がLAに住んでいるので、TERUが「TAKURO今日どうすんの? 一人ならうちで飯食う?」と誘ってくれたりとか。

――いい話ですね。30年間精力的にリリースを続けていますが、その想像力や曲作りにおいてアイデアが枯渇せずに活動を続けられている理由を教えてください。

JIRO:TAKUROは直感的に、前回のアルバムが難しすぎたから今回は原点に返りたいとか、ライブバンドを意識したサウンドを作りたい、などの想いが明確にある。さらに、周年だからコラボやろうか、なんて新しい企画も尽きなくて。この前もENHYPENのJAYくんとやりましたけど、そういうのも新鮮です。

TERU:一番の理由は、TAKUROが、湯水のように曲が湧き出てくること。そしてコロナ禍の3年間、あまり会えなかった時期にデータのやり取りで曲を作るのが主流になったことも。TAKUROからデモが送られてきて、JIROがベースを入れて、HISASHIがアレンジするという流れで、曲作りがスムーズになった。あとは、他のバンドはこんな曲やりたいとなった時に意見が割れるかもしれないけど、うちの場合は、とりあえず一回アレンジしてみようという流れにもなるんです。

TAKURO:歌いたくないなら、歌いたくないよ~って曲を作ればいいと思ってるし、曲作りに苦労したことがなくて。むしろ、早くリリースしてくれと曲が並んで待っている状態。例えばもし俺が今曲作りをやめても、絶対にGLAYがやったらカッコいいと思う曲は一生分ある。だからTERUが嫌だとなっても、仮歌を入れてもらいます。

TERU:あははは(笑)。

HISASHI:最近ではありがたいことに、ゲームのサントラやアニメに曲を使ってもらったりするから嬉しいね。お題をもらえると、音楽は止まらないですよね。

TAKURO:ますます張り切るよね。ベテランのみなさんは、長く活動していると1年間とか休んだりするけど、俺なんて2週間休んだらバンドやりたくなるんですけど。だってスタジオに行ってみんなで演奏するなんて、楽しいじゃん。そんな趣味が職業になって、ずっとやってても怒られないんですから。

HISASHI:たぶん俺は2週間休んだら廃人になる。何か目標がないとダメなんですよ。バンドやれてるからまともでいられる。

――ファンにとってはGLAYがこの先も活動を続けてくれることが一番の喜びです。みなさんは、GLAYであり続ける意味をどのように感じていますか。

TAKURO:’80年代に函館で過ごした4人組にしか歌えない歌があると、30周年を迎えた時に思いました。今みたいにネットがなく、もっと原始的な生活をしていた人たちの気持ちや、北の大地の息吹みたいなものを曲にできるのはGLAYだけ。GLAYがいる理由ってこういうことなんだ、と。今はTERUが函館にスタジオを作ったので、ボーカル録りのほとんどを函館でやってます。

――地元で作るとよりGLAYらしさを発揮できるのでしょうか。

TAKURO:そう、GLAYの曲は函館で聴くのが一番理解できると思います。俺の好きなU2を聴くなら、アイルランドのダブリンがたぶん一番だし、泡盛は沖縄で飲むのが一番美味い、に近い。

HISASHI:俺は(X JAPANの)HIDEさんに影響を受けたんですが、GLAYみたいなバンドを目指して上京してくる後輩も増えてきて、そういうギタリストのヒーロー像みたいなものを残していかないといけないという変な使命感を、いつからか感じるようにも。自分の描くヒーロー像を超えることはできないんだけど、今度はそれを受け継ぐ番なのかな。それがGLAYでいる意味。

TERU:毎回ワクワクしながらいろんな興味に手を伸ばしているのは、仕事ではなく趣味として。4人で音楽を作って、ライブをやって打ち上げで飲んで。GLAYでいること以上に楽しいことはないんですよね。

JIRO:唯一面倒くさいのがMVの撮影です。そのぐらい(笑)。

TAKURO:待ち時間がね(笑)

JIRO:でもファンとの距離が近くなる地方のキャパシティの小さい公演も楽しいし、僕らと共に大人になったみなさんと再会を果たすのは嬉しい。アリーナみたいな大きい会場で一体感を味わうのも、周年でしかできないようなドーム公演もワクワクします。

――20~30代の読者に、みなさんの魅力を伝えるなら?

TERU:この前LUNA SEAとライブをした時に、予定になかった「pure soul」を急きょ入れたんですが、その理由はふと、俺たちの20代の頃の想いが詰まった曲を今の20代が聴いたらどう感じるんだろうという衝動に駆られたから。だから読者のみなさんには「pure soul」を聴いていただきたい。当時俺らが感じてた生きづらさや、頑張らなきゃみたいな気持ちは、時代が変わっても同じだと思うから。

JIRO:そして50代になっても相変わらず楽しんでいるGLAYの音楽には、人生や人間関係のバランス、ヒントが隠されているんじゃないかなとも思うんです。

TAKURO:バンド名の通り白と黒、ポップとロックみたいな曲がたくさんあるけど、一番は譜面に書けない部分。高校時代に組んだバンドが今も楽しそうにやってるな、というのを見てほしい。

HISASHI:TERUのボーカリストとしての圧倒的な魅力も、一緒にやっていても驚くほどすごいです。コピーできない唯一無二のものを生で見たら、必ず刺激になるはず。

――“ジャパンエンタメ”特集において、日本発の音楽を届ける上で譲れないことはありますか。

TERU:特にここ10年ぐらい、日本語の美しさをいかに伝えられるかを意識した歌い方をしていて。日本で生まれたポップ感をGLAYはすごく大事にしています。

――四季を意識したMVもあって。…やっぱりMVは大事ですね(笑)。

JIRO:そうですか…では頑張りましょう(笑)。でも流行りの音楽は、小節の中に音が細かく入っていたり、洋楽っぽさもある中、GLAYの曲は穏やかなAメロ、サビに繋がるBメロ、壮大なサビに続くギターソロに少し景色の違うDメロがあって。この進行って昔ながらの日本の音楽。昭和の時代から続く、J-POPの血が脈々と流れているようなところが、GLAYのこだわりです。

HISASHI:俺はこだわりというより、面白ければいいかな(笑)。音楽はもっと自由に楽しむべき。それをみんなに伝えたい。

TAKURO:昨年のアメリカのグラミー賞を全て見て、日本の音楽はこのまま突き進めば必ず届くという確信がありました。いま日本のヒットチャートにのっているアーティスト含め、こんなに丁寧に構築された、まるで手の込んだ和菓子のような音楽は、世界中探しても日本にしかないです。日本語はビートに乗らないという、昔からあったコンプレックスも今はクリアしつつある中で、日本独自の進化を遂げた複雑なコード進行を持って、あらゆる世代の日本のアーティストはどんどん世界に飛び出していっていいと思う。俺には希望が見えています。

Profile

TAKURO

タクロー 1971年5月26日生まれ、北海道出身。ギター担当。リーダーを務め、GLAYの大半の楽曲を手がけるメインコンポーザー。近年はソロプロジェクトとしてTAKURO名義でインストアルバムのリリースやライブツアーを敢行。

TERU

テル 1971年6月8日生まれ、北海道出身。ボーカル担当。音楽活動のほか、東日本大震災・熊本地震の復興支援活動などにも力を注ぐ。’96年から続いているBAYFM『TERU ME NIGHT GLAY』が毎週水曜23:00~放送中。

HISASHI

ヒサシ 1972年2月2日生まれ、北海道出身。ギター担当。他アーティストへの楽曲提供やプロデュースのほか、近年はバラエティ番組にも多数出演。YouTubeチャンネルで「HISASHI TV The LIVE」を隔週土曜21:00~生配信中。

JIRO

ジロウ 1972年10月17日生まれ、北海道出身。ベース担当。TERUに次いでメインボーカルを担当することも。ライブの演出やグッズ制作にも深く関わっている。FM802『BUGGY CRASH NIGHT』が毎週土曜24:00~放送中。

GLAY

グレイ 北海道出身のロックバンド。TAKURO(Gt.)とTERU(Vo.)を中心に1988年に結成し、’89年にHISASHI(Gt.)、’92年にJIRO(Ba.)が加入し現体制に。’94年に1stシングル『RAIN』でメジャーデビュー以降、数々のシングルやアルバムでミリオンセラーを達成し、’99年に行った「GLAY EXPO ’99 SURVIVAL」で日本国内の音楽史上最大となる20万人を動員。現在は30周年イヤーを駆け抜け、4月23日には30周年記念ベストアルバムをリリース。5月31日・6月1日に東京ドーム、6月8日に京セラドーム大阪にて締めくくりとなる「GLAY 30th Anniversary GLAY EXPO 2024‐2025 GRAND FINALE」を開催。

Information

『DRIVE 1993~2009 ‐GLAY complete BEST』 『DRIVE 2010~2026 ‐GLAY complete BEST』

2000年発売のベストアルバム『DRIVE ‐GLAY complete BEST‐』の後継作となる30周年記念ベストアルバム。投票総数6万5260票のファン投票にて選ばれた楽曲がそれぞれ収録され、加えて再録やRemix、そして新曲として「悲願 GLAY feat.小田和正」も収録される。共に【2CD+DVD/Blu-ray】¥7,150 【2CD】¥3,850(ポニーキャニオン)

TAKUROさん・シャツ¥44,000 ベルト 参考商品(共にガラアーベント/サーディヴィジョンピーアール TEL:03・6427・9087) ジャケット¥70,400 パンツ¥30,800 シューズ¥59,400(以上キリュウキリュウ/kiryu co.,ltd TEL:03・5728・4048) アクセサリーは本人私物

TERUさん・シャツ¥38,500 シューズ¥77,000(共にガラアーベント/サーディヴィジョンピーアール) ベスト、ジャケット、パンツ すべて参考商品 ベルトバックル¥19,800(以上キリュウキリュウ/kiryu co.,ltd) その他はスタイリスト私物

HISASHIさん・シャツ¥41,800(ガラアーベント/サーディヴィジョンピーアール) ジャケット¥72,600 パンツ¥37,400(共にキリュウキリュウ/kiryu co.,ltd) アクセサリーは本人私物 その他はスタイリスト私物

JIROさん・シャツ 参考商品 ジャケット¥99,000 パンツ¥41,800(以上ガラアーベント/サーディヴィジョンピーアール) その他はスタイリスト私物

写真・倉本侑磨(Pygmy Company) スタイリスト・Takeshi Sakazaki Masashi Iimura(共にStyleLAB.) ヘア&メイク・Takayuki Tanizaki(Fats Berry) Takahiro Hashimoto(SHIMA) 取材、文・若山あや

anan2445号(2025年4月30日発売)より
Check!

No.2445掲載

ジャパンエンタメの現在地 2025

2025年04月30日発売

日本が誇る最前線のエンターテインメントの形を深掘り。高橋一生さん、鈴木亮平さん、土屋太鳳さん、柚香光さん、草彅剛さんなど人気・実力を兼ね備えた俳優陣から、ミュージシャンの羊文学、小説家の安堂ホセさん、脚本家の吉田恵里香さんなど注目作のクリエイターたち、ジャパンアイドルの最新形・CUTIE STREETの板倉可奈さん&増田彩乃さん&川本笑瑠さんまで、超豪華ラインナップです。CLOSE UPには、timeleszの原嘉孝さんが新メンバー連続登場企画の第1弾として登場。

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意気投合する友達や、目標を同じくする相手と過ごす時間は貴重なものです。特に憧れの先輩や先生がいる人は、付き従っていろいろと学ばせてもらうのに良い日です。相手の⻑所や気品、考え方、見習いたい行動などを吸収していきましょう。逆の立場では、周囲の期待や崩せないイメージに悩むかも。それは責任感が強い証拠です。

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