戦国武将の“験担ぎエピソード” 織田信長が桶狭間の戦いの前にしたこととは?

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2022.04.12
強く勇ましいといわれる戦国武将たちも、実は験担ぎや願掛けをしていたのだとか! 日本の歴史に詳しい辻明人さんに伺いました。

天下取りの野望を叶えるのは、神頼み!? 戦国武将たちの験担ぎエピソード。

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戦国時代に詳しい辻さんによると、戦国時代の験担ぎといえば、「〈三献(さんこん)の儀〉が有名ですね」とのこと。それっていったいなんですか?!

「室町時代頃から、武士が戦いに赴く際の出陣の儀式として行われていたものです。南に向いて座った大将が、“打ちあわび”“かち栗”“昆布”という3種類の肴を順に口にし、その合間に3枚の盃に3度に分けて注いだ酒を3度に分けて飲み干し、『敵に打ち勝ち、よろこぶ』と声を発します。そのあと立ち上がり弓と軍扇を手に“エイ、エイ”、そして周囲の人全員が“オーッ”と声を上げる、という儀式です。士気を高めたといわれています」

占いや呪術を用いて主君にアドバイスをする〈軍配者〉という存在も、当時は重宝されていたそう。

「合戦にあたって吉凶を占い、日時、方角の是非について進言し、不吉なことが起きたらお祓いをするのが軍配者の仕事です。当時は天候が合戦の勝敗に大きく影響し、武田信玄には駒井高白斎という軍配者がついており、彼の日記は雲の観察記録が大半を占めていた。天気予報がない時代、軍配者の存在は貴重だったんですよ」

織田信長

桶狭間の戦いの奇跡の勝利は、熱田神宮への願掛けのおかげ?!

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「織田信長は神仏を信じなかったイメージがありますが、実は今川義元を破った桶狭間の戦いの前に、行軍の途中で熱田神宮に寄り戦勝祈願をしています。社前から2羽の白鷺が飛び立ち、社殿から鎧が触れ合うような音が…。信長は“吉兆である”と士気を高めました。すると敵陣に斬り込む際、夏だというのに暴風が吹いて雹(ひょう)が降り、敵が混乱して見事に勝利! 信長は後々まで熱田神宮を大切にしたといわれます。また彼は、破裂音で魔を祓い神を迎える意味があるといわれる爆竹を好んで、さまざまな行事の折に盛大に爆竹を鳴らしました。行事自体の魔除けになるとともに、集まった観客を驚かせる、といった狙いもあったようですね」

明智光秀

本能寺の変の前に愛宕神社に参詣し、連歌会を開催。

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「天下人になった織田信長を本能寺で討ったのが、信長の家臣であった明智光秀でした。一昨年のNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公です。本能寺の変の直前、光秀は京都の愛宕山に登り、軍神として、多くの武士の信仰を集めていた愛宕神社(当時は愛宕権現)に参詣しました。また当時、戦いの前に神前で、参加者が五・七・五と七・七を交互に連ねていく即興の歌会〈連歌会〉を開き、さらに詠んだ連歌を神に奉納して出陣すれば勝利は間違いないといわれていたので、光秀はそれも実行。実際に3日後、本能寺で最高実力者であった織田信長を討ち果たすことに。まさに願掛けが成功したということでしょう」

上杉謙信

毘沙門天を篤く信じた男は軍旗にも「毘」の文字を。

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「戦国武将の中で、もっとも神仏への信仰が篤かったといわれる上杉謙信。軍神の毘沙門天を深く信仰し、居城の中に毘沙門堂を建て、出陣の前には必ず堂にこもり戦勝を祈願しました。あるとき合戦から帰った謙信が毘沙門堂に行くと、堂の外から泥のついた足跡が堂内へ。彼はそれが毘沙門天像のものであると思い、“一緒に戦いに赴き、戦場を駆けてくれた”と感激し、像は〈泥足毘沙門天〉と呼ばれることに。謙信の願いは常に毘沙門天と自分が一体化することだったそうで、それを祈念し、軍旗にも“毘”の文字を使用。彼は生涯70以上の合戦に出陣し、敗北はなんと2度のみ。戦国最強の武将の根幹には、毘沙門天への篤い信仰があったのです」

辻 明人さん 歴史コンテンツプロデューサー。元歴史雑誌の編集長で、現在は「和樂web」やnoteなどで歴史に関する執筆も。

※『anan』2022年4月13日号より。イラスト・七輝 翼

(by anan編集部)

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