雑誌『anan』では、5月14日発売号より、湊かなえさんの連載小説『王国』がスタートしました。記念すべき連載第1回をウェブで全文公開します。
『王国』 第一章 浜崎朔也
海の底には城がある。
城に住むのは珊瑚の女王と、九人の騎士。
彼らにより美しい海は守られている。
南太平洋の島国──。とある海岸で、村の若者たちが密漁をしていた。狙うは、ロブスター。そこに現れたのは、赤い甲冑をつけた騎士。二本爪の赤い長槍の先がきらりと光る。
「私は海の騎士、レッド。きみたち、ロブスターの捕獲はやめなさい!」
若者の一人が反論する。
「俺たちは、ロブスターをレストランに売るために捕っているんじゃない。今夜の食事のためだ。海の資源はみんなのもの。先月だって捕獲した。なぜ、今日はダメなんだ」
騎士は答える。
「今はロブスターの産卵期。禁漁期間だ。きみらが奪っているのは、今夜の夕飯用の数匹ではない。きみらの人生、そして、きみらの子どもたちに受け継がれるべき、海の資源、海の未来を奪っているんだ」
他の若者が訊ねた。
「じゃあ、今夜は何を食べればいいんだ」
「魚を食べればいい。私は漁をするなと言っているのではない。海の生物のことを知り、ルールを守って、海からの贈り物を感謝して受け取ってほしいのだ。さあ、釣り竿を持っておいで」
若者たちは「ごめんなさい」と謝って、ロブスターを海に返し、家に帰っていった。
海の城に騎士が戻ると、珊瑚の女王が出迎えた。騎士が、無事、ロブスターの密漁を阻止したことを伝えると、女王は、海を守ったご褒美に、騎士の頬にキスを授けた、とさ。めでたし、めでたし。
ビデオデッキから古いテープを取り出した。
〈2000年 海の王国 ロブスター編〉
たった10分の実写映像は、ぼくが五歳のときに制作された。村の若者は現地の人たち、騎士はぼくの父、女王はぼくの母が演じている。タイトルにある王国は国の正式名称から取ったものだ。趣味で撮ったものではない。国家プロジェクトとして、地元の人たちへの啓蒙活動のために作られた。
「これが?」
日本から飛行機を乗り継いで、言葉も通じない、小さな南の島に連れてこられたぼくは、こんなもののために、日曜日の朝に楽しみにしていたヒーロー番組が見られなくなったのかと、不満をあらわにした。
「お父さんの仕事は何なの?」
日本にいたときから、父はあまり家にいなかったため、幼稚園の他の子のお父さんと同じような、会社員ではないのだろうとは思っていた。医者、バスや電車の運転手、パン屋さん……。ぼくが知っている「仕事」のどれにも父は当てはまらない。
父は日焼けした顔をほころばせて言った。
「海を守る仕事だ」
その後、父の所属先は国際協力事業団で、海洋環境保全のための調査員をしていることを知るのだが、ぼくは学校などで父親の職業を訊かれると、父から教えられた通りに答えていた。
「ぼくのお父さんは海を守る仕事をしています」
島の暮らしも慣れてくると快適で、地元の友だちもでき、遊んでいると言葉も覚え、テレビが見られないことなどまったく苦にならない、振り返るときにはいつも、太陽の光がきらきらと降り注いでいる、楽しい毎日を過ごしていた。
何よりも、毎晩、家族そろって食卓を囲めることがうれしかった。父、母、ぼく、そして、三つ年下の弟、元樹といっしょに。キリスト教徒ではないが、地元の人に教えてもらった一番簡単なお祈りをして、食事が始まる。
主食はタロイモ。おかずは、魚、肉、野菜、果物。自然の恵みに最小限の手を加えた料理を、しっかりかみしめ、ゆっくり飲み込むと、それぞれの食材が、血となり、骨となり、ぼくの体を作ってくれていると感じる。だからお祈りするのか、と。
元樹はアレルギー体質で、医療環境が整った日本にいる方がいいのではないかと、父は単身赴任するつもりでいたが、母が却下した。何かあれば私が子どもたちと帰ればいいだけだから、と。何が功を奏したのかわからないままだが、元樹は日本にいたときよりも元気になった。
「人間には治癒能力が備わっているのよ。美しい自然の中に身を置けば、心も体も回復できる」
母は父と同じ小麦色の笑顔でそう言った。
「みんなで来てよかったでしょ」
これは、父に向けて。スキューバダイビングを通じて出会った両親は、浜崎家の王様とお后様というよりは、「海の王国」での役割通り、女王と騎士のような関係に見えた。主従関係ではない。愛する人を守り続ける父の姿が、騎士の姿と重なった。
母は時間をかけて命を蝕む難病を抱えていた。自然の力を借りても打ち勝てないほどの。それでも母は、二十歳を迎えるのが難しいと医者に宣告された自分がそれを乗り越え、スキューバダイビングを楽しみ、結婚し、二人の子どもを授かり、途上国と呼ばれる海外での暮らしも可能なほどに生きていられるのは、海のおかげなのだと言っていた。
海とは、南の島の海だけでなく、母の生まれ故郷の海でもあった。
南の島で暮らして二年経ったころ、母の病状は進行し、ぼくと元樹を連れて日本に帰ることになった。父の任期はまだ二年残っていた。そのため、ぼくたちは母の故郷で暮らすことになった。
太平洋に臨む、S県の松ヶ崎市で。港のある白珠湾は、奇岩と白砂、両方を有した海岸で、日本屈指の漁場とも呼ばれていた。
母の実家は白珠湾の中央に位置する港町にあった。祖父はぼくが生まれる前に他界していたが、祖母は健在で、漁港で食堂を営んでいた。祖母、いや、ばあちゃんの料理は魚介類だけでなく、米や野菜、すべてが県内で作られたものを使っていて、漁師を中心とする地元の人たちに大人気だった。
母が入院すると、ぼくと元樹は食堂周辺の漁港で過ごすことが多くなったが、すれ違う人たちの大半が、よそから来た見知らぬ子どものはずなのに、「おばちゃんの飯を食ってりゃみんな仲間だ。困ったことがあったら何でも言ってくれよ」と優しい言葉をかけてくれた。口調が荒く、初めは怒られているのかと面喰らったが、顔を見ればすぐに誤解はとける。
海辺に住む人たちの顔は、日焼けの有無にかかわらず、父にも母にも共通する、カラリとした明るさがあった。海に出れば、必ず無事帰ってこられるとは限らない。地上でけんかをしても、海に出る人は明るく出ていく。残る人は笑顔で見送る。それが最後の別れとなっても後悔のないように。その毎日が積み重なった自然と共存している人の顔だった。
父は任期を一年繰り上げて帰国した。
「もう一度、海のお城に行ってみたかったな」
白珠湾を見下ろす高台の病院の病室で、母は父にそう言った。
「行こう」
父はそう言って、母の左手の薬指に自分の薬指を強くからめたが、約束が果たされることはなかった。
父はそれを悔いていた。
「海のお城は遠いもんね」
ぼくはそう言って父をなぐさめた。だが、父の後悔はそこではなかった。母の言う「海のお城」が別の場所だったことを知ったのは、母の散骨のときだ。母の骨は白珠湾沖に撒かれることになった。
船は母のおさななじみでもある漁師の、潮見のおじさんが出してくれることになった。おじさんの息子の翔はぼくと同級生で、ばあちゃんの食堂で一緒に夕飯を食べることがよくあったし、おじさんの奥さんも翔がまだ三歳のときに亡くなっていたので、快く引き受けてくれた。
おじさんの船は、おじさんのお父さんから引き継いだものらしく、船体に書かれた「天馬丸」という文字はかなり掠れていた。五人乗りの船に、ばあちゃん、父、ぼく、元樹、の四人で乗せてもらった。翔も乗りたがったが、定員オーバーのため、置いていかれることになった。
「悔しいなら、おまえが漁師になって、でっかい船を父ちゃんに買ってくれ」
おじさんは大きな手を翔の頭に乗せて、わしゃわしゃと撫でながらそう言った。口をとがらせていた翔の顔が、こそばゆそうな笑顔になり、桟橋から船が出るときは、ぼくらに向かって大きく手を振ってくれた。
東の鶴羽岬から西の亀甲岬まで、弓なりの地形を描く白珠湾の、鶴羽岬寄りの沖でおじさんは船を停め、「ここでいいか」と父に訊ねた。父は頷き、ぼくと元樹を両脇に抱え、海面をのぞきこんだ。
「この下には、海のお城があるんだ。世界中のどんな建築家も敵わない、自然が作り上げた見事な岩の城だ。父さんと母さんは、ここで出会い、ここで結婚の約束をした。今日から母さんはここで眠る。おまえたちがもう少し大きくなったら、父さんがダイビングを教えてやるから、母さんが恋しくなったり、何か相談したいことができたりしたら、会いに行けばいい」
ぼくは身を乗り出して海面を凝視したが、自分の影しか見えなかった。海のお城は深く潜らなければ、姿を見ることすらできない。
「この海で生まれた子は、この海に帰る。ゆっくりおやすみ」
ばあちゃんは海に向かってそう語りかけると、経を唱え始め、皆で手を合わせた。その後、母が好きだった黄色いガーベラの花を、ぼくと元樹が一本ずつ海に投げ、父が粉末状にした母の骨を撒いた。
「私もその海のお城とやらを一度でいいから見てみたかったねえ。素潜りじゃ行けないらしいから」
ばあちゃんが言った。まだ生きているのに、もうチャンスはないような言い方で。だが、年寄りにスキューバダイビングは無理だろうなとすぐに納得できた。
しかし、父は違った。
「海にはまだまだ未知の可能性が眠っています。僕はダイビングがただのレジャーではなく、医療やカウンセリングの役に立つことを証明したい。そのためにも、体が弱い人や高齢者でも簡単に使える機材やタンクの開発を、いろいろな関連機関に提案しているんだけど、なかなか耳を傾けてもらえなくて。夕海子の最後の願いも叶えてやることができなかった。でも、お義母さんはまだまだ元気でいてください。僕が必ず案内しますから」
「おばちゃんが潜るなら、俺が船を出すぜ」
潮見のおじさんが優しく続けた。
「ぼくもおばあちゃんと潜りたい」
元樹もそう言って、ばあちゃんに抱きついた。
楽しみだねえ、と笑ったばあちゃんは今でも健在だが、父はその二年後に、海外での海洋調査中に事故に遭いこの世を去った。遺体は見つからず、母と同じ場所に散骨できなかったが、父は海の騎士となって母の待つお城に帰ってきた、と、ぼくは信じている。
(つづく ※次回は雑誌『anan』2447号〈5月21日発売〉にて掲載予定)
連載第2回は5月21日(水)発売の『anan』に掲載!
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5月21日発売のanan 2447号の特集は「人間関係の距離感。」私たちにとって永遠のテーマである人間関係、そして距離感。その最適解を探る特集です。みんなが日頃心掛けていることや起こりがちなトラブルをピックアップし、近づく、遠ざける、職場でスムーズな関係をキープする、といった方策を距離感ごとに探ります。
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連載スタートを記念し、湊かなえさんにスペシャルインタビューを実施。インタビュー記事はananWEBで公開します(5月中公開予定)。
profile

湊かなえ
みなと・かなえ 1973年、広島県生まれ。デビュー作の『告白』は2009年本屋大賞を受賞。「望郷、海の星」で日本推理作家協会賞短編部門、『ユートピア』で山本周五郎賞を受賞。『贖罪』はエドガー賞候補となる。最新刊は『C線上のアリア』。