
紙島 育『ののはな語らず』
名もなき草花、という言い方があるが、実際、私たちが目にしている草花で名前のないものは無きに等しい。紙島育さんの『ののはな語らず』は、景色の一部になっていたそれらを知ることで、世界の見え方が変わる様をみずみずしく描いている。
いつもの景色の解像度が上がる、語らないから知りたい草花
「ハガキに花の挿絵を描く仕事をしていたとき、身近な植物の名前をまったく知らないことに気づいて、近所の野草をスケッチするようになりました。それで図鑑を手にした女の子が野草に囲まれているイラストをSNSにアップしたら、マンガにしてみないかと現在の担当編集さんが声をかけてくれて。1枚のイラストから始まった物語といえますね」
主人公の友野ののこは、前の持ち主の気配を感じるような使い古されたものに目がなく、亡き祖父の家で暮らしながら古道具屋を営んでいる。
「古道具も草花も、私自身が形状の面白さに惹かれているのだと思います。たとえばののこが使っているほうきは、物語的にはどんな形でも構わないのでしょうが、変わったものをつい描きたくなってしまうんですよね。そのぶん時間はかかりますが、こういうコマの積み重ねが、説得力を増すのだと信じています」
コメツブツメクサ、ヘビイチゴ、ネジバナ、ネコジャラシ…。祖父が愛した草花にののこは関心を示すようになるのだが、ユニークなのは彼女の傍らにある植物図鑑に、祖父の魂が宿っているところ。祖父が正解を教えようと語りかける声は本人には聞こえないのだが、読者は彼女の発見や勘違いを俯瞰的に知ることができ、つい応援したくなる。
「主人公が自分で調べようとする過程も描きたかったので、おじいさんには図鑑にこもっていただくことにしました。植物愛が強すぎて、そばにいたら聞いていないことも全部教えてくれるような人なので(笑)」
植物の繊細な描写は必見。クールな主人公が淡々と、でも内なる情熱を胸に草花と向き合う姿が印象的だ。
「描きながら指標にしたのは、とある学者の言葉で、野の花は人間にきれいと思われるために咲いていない、ということ。主人公にも『きれい』とは一度も言わせていないんです」
最初に決めた『ののはな語らず』というタイトルが、物語を引っ張ってくれたと振り返る紙島さん。積極的に語りかけてくることはないけれども、興味を持った人間のことは拒まない野の花。その距離感が心地よく、本を閉じる頃にはこちらの眼差しも、きっと変わっているはずだ。
Profile
紙島 育
かみじま・いく マンガ家、イラストレーター。岡山県出身。京都芸術大学通信教育課程イラストレーションコースで非常勤講師を務める。本作が初単行本。
Information

『ののはな語らず』
古道具屋の店主・友野ののこが、亡き祖父の図鑑を手に身近な草花と友人になる“半径1000歩”の物語。カバー下には、紙島さんがスケッチしてきた草花が! 光文社 880円
anan 2462号(2025年9月10日発売)より