恋と共存していた時代
好きと思う気持ちを伝えられるかどうか、ということを、今の人は考える。好きという気持ちを伝えられなくて、そのかわりSNSで呟いて、その気持ちをすこしだけ落ち着かせる人もいる。もちろん、伝えるために言葉を選んで、LINEしたり、直接言ったり。けれど、好きという気持ちを、「作品」として伝えるのが当たり前だった時代もある。歌で気持ちを詠み、伝えた平安時代のこと。
百人一首を訳する仕事をしていたころ、この「当たり前」さについて、わかる気もしながら、どこか、簡単にわかってはいけないような気もしていた。気持ちを伝えるということにどうして「作品」という形を選んだのか、それは当時の人にとってはその方が自然だったからで、その自然さは突き詰めても、今の私には共感が難しい。気持ちを自分だけのものだと捉えて、それを相手にさらけ出すかどうかを悩む今の人と違って、もしかしたら彼らにとっての恋は、人と人の間に流れる水のようなもの、自分だけのものではなく、恋は人と人の間に芽生えて、人々の営みの一部として育っていくものだと捉えていたのかもしれない。恋心が歌によって詠まれることで、他者に知られること、しかも作品として鑑賞されることに、今なら恥じらいを感じる人が多いだろう。けれど、人が無数にいる中で、その社会に恋心もまた無数に流れている、当時は妖怪や幽霊といった存在が当たり前にいるとされたが、恋心もそんなふうに空間に潜み、当たり前にすぐそこにあるものとして捉えられていたのかもしれません。
恋をする気持ちそのものは、無数に人がいれば当然芽生えていくはずで、そのことにはロマンを今ほど感じなかったのかもしれません。恋心が芽生えればそれだけでドラマとなる今とは違って、人は生きれば恋ぐらいするでしょうという、恋と共存する人々の姿があります。けれどだからこそ、ドラマチックな「作品」という形式がコミュニケーションに選ばれたのかもしれない。そして、今、千年の時を経ても、作品は作品という結晶のままでそのロマンを届けてくれる。恋そのものをドラマチックに捉える私たちだからこそ、ときめくものもそこにあるように感じます。
いくつか、恋の歌をご紹介します。
玉の緒よ絶えなば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする
恋愛を禁じられた立場であった式子内親王が詠んだ恋の歌。玉の緒とは自らの命と体を結ぶ緒のことで、「玉の緒よ、切れるなら切れてしまえ。このまま生きながらえれば忍んでいた想いも耐え切れず外へ溢れてしまうかもしれないから」。しかしこの歌は、ひそかに内親王が詠んだ歌でも、想い人に贈るために詠んだ歌でもなく、歌合で「忍恋」というお題を与えられて詠まれた歌です。それはこの歌がフィクションである可能性も示唆しますが、一方で、お題があってやっと詠まれた真実であると読むこともできます。詠まれた場を踏まえるとより深みが増す和歌です。
筑波嶺(つくばね)の峯より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる
川の変化を恋心に喩えた歌です。峰から流れる細く浅い川のように始まった思いが、恋心が募ることで深く底の見えない淵となる。淵とは、川の流れが穏やかで深いところのことを指します。流れが穏やかであるからこそ、淀む部分もあり、また深いからこそ光が届かない部分もある。この歌は陽成院が想い人に実際に送った歌とされています。歌そのものは、恋のあり方を普遍的に捉えた秀逸なもので、現代にも共感される方も多いかとは思いますが、この歌を、ひとりの愛する人に贈るという行為にはひとりの人間が生きた形跡を感じます。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
崇徳院のこの歌が私はとても好きです。崇徳院は波乱万丈の人生を生きた人。父親には自分の子ではないのではと疎まれ、ついには地位も権力も奪われ、歌に没頭する生涯をおくります。この歌は、川の流れが岩によって二つに分かれても、また一つにまとまっていくように、私とあなたも今別れても、また必ず会おうじゃないか、というもの。背景を知ると、地位への執着とも読める歌であるけれど、やはり私はこれは恋の歌であると思う。そして、帝の地位を奪われた崇徳院にとって「また会おう」と思うことがどれほど難しかったかについて考える。人を信じることも難しく、敵ばかりがいる中で、切れていった縁もあり、阻まれることも多々あったでしょう。それでもきっと「会いたい人」はいて、その人に「また」と思うことは、もしかしたら彼にとって、すがることのできる唯一の希望であり、また希望として強く輝けば輝くほど絶望そのものを照らすものでもあったはず。それでもこの作品は美しく、悲しいほど貫かれる人の思いが結晶のように残されています。
さいはて・たひ 詩人。主な詩集に『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、著書に百人一首の紹介エッセイ『百人一首という感情』や、百人一首を詩の言葉で現代語訳した『千年後の百人一首』(清川あさみとの共著、すべてリトルモア)。
※『anan』2020年9月23日号より。文・最果タヒ
(by anan編集部)