マンガ家・瀧波ユカリ「とてもエンパワーされた」 影響を受けた“女バディ”コミック
瀧波ユカリさんが“バディ”という言葉を意識したのは、10年少し前。三浦しをんさんの小説を原作とした映画『まほろ駅前多田便利軒』など、男性バディの映像作品の密かなブームを見て、だったそう。
「言われてみれば、確かにこういうジャンル、あるな、と。同時にこんなにバディものを求めている人たちがいたのか、ということに新鮮な驚きを感じました」
バディと聞いてイメージするのはやはり“戦い”。お互いに寄りかからない自立した二人が、なにか事件や問題に対して二人で挑み、解決する。その物語構造とバディは切り離せない、とも。
「その“自立した”というところは結構大事で、私たちがバディになぜ惹かれるか、という理由の一つに、おそらく“こざっぱりとした関係性”というのがあると思うんです。いつもは付かず離れずの関係で、干渉し合わない。でもピンチのときには助け合う。そんな自立した二人だからこそ、私が思うバディは成立する。でも現実として大人の女性は、ジェンダー的に“ケアをすべし”と刷り込まれているので、女同士二人の、お互いをケアしないこざっぱりとした関係性の物語を、リアリティを持って見られるか…。例えば、既婚・子持ちの女性二人が、なにかと戦う、あるいはなにかから逃げる場合、ついつい“え、子供はどうした?!”とか、“明日のごはんの準備は?!”とかがちらついてしまうかもしれないし、なによりその“ケアをし合わない自立した女性”の姿を見て、私たちは心をざわつかせずにいられるだろうか、とも思うんです。そういった女性の姿は、今の日本の女性たちにとって遠い存在なのではないかと…」
しかし、その刷り込まれたジェンダーを意識せずに見られる設定がある。それは、二人が最初から悪い人であるという設定。
「正直なところ、現実の女性は肉体的にも社会的にも力を持つことができていないので、その縛りを外さないと私が思うバディものは難しいと思うんです。じゃあどんな設定なら、ジェンダーや力が持てないという現実を超えられるか。私が大好きなバディ作品に、高口里純先生の『ロンタイBABY』というマンガがあるのですが、これは超武闘派のチャコと、姉が暴走族の初代総長という筋金入りのヤンキーであるマコ、そんな2人の不良少女の青春物語。二人は思春期の高校生で、まだ“女はケアをするべき”というジェンダーが板につく前の存在なんです。さらに反骨精神も持っているし、不良なので最初から戦う属性でもある(笑)。汚い言葉を吐きながら、目の前に立ちはだかる相手…例えばそれが男性であっても、物理的にぶちのめしていく。それを実現させてくれるのが、私にとってはいわゆるヤンキー、つまり悪人という設定なんです」
瀧波さんが『ロンタイBABY』を初めて読んだのは、小学生のとき。当時は無邪気に“私にもマコやチャコみたいな存在がいたらな”と思っていたそうですが、いま思うと二人のやりたい放題な様子から、いろんなものを得たそう。
「二人とも本当に口が悪くて、すぐ“バカ”とか言うんです。物語の中ではありますが、女の子は特に禁じられていた罵り言葉を使う女の人がいること、そして女も反骨精神を出していいことなどを知ることができ、とてもエンパワーされたと思います」
ただ、ヤンキーという設定や、学校など権威に歯向かうスタンスがいま受け入れられるかというと、そこには瀧波さんも懐疑的。
「なので、私がもしいま女バディものを描くとしたら、ダークヒーローにして、最初から、“この人たちは悪い女なので、悪いことをバンバンしますよ!”ってことにしちゃいます。もちろん芯には強い正義があるんですけど、基本は結構悪い人(笑)。あるいは舞台を女子刑務所にするか…って思いましたが、実はそれも、高口先生が『花のあすか組!』の蘭塾編ですでにやってるんですよね。その先取り感、本当にすごいです」
瀧波さんのおすすめ
『ロンタイBABY』
昭和の不良女子高生が口悪く跋扈する!
舞台は’70年代中頃、通称マコとチャコと呼ばれる2人の不良女子高生バディの物語。タイトルのロンタイとは“ロングタイトスカート”の意味で、当時の不良は制服のスカートを長く細くしてはいていたそう。「二人がいる、それだけで存在意義が伝わるので、多くを語らなくても関係性や世界観が理解できる。バディの物語に軽みがあることも、この作品が教えてくれた気がします」(瀧波さん)
高口里純 電子版1~5巻 ¥412~/講談社 ©高口里純/講談社
たきなみ・ゆかり 1980年生まれ、北海道出身。2004年『臨死!!江古田ちゃん』でマンガ家デビュー。連載中の『わたしたちは無痛恋愛がしたい ~鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん~』(講談社)は5巻まで発売中。
※『anan』2024年8月28日号より。イラスト・加藤羽入
(by anan編集部)