歌手になったきっかけは、父の思いでした。
私の父・瀬川伸は紅白歌合戦にも出場経験がある流行歌手でした。3人の子供のうち誰かを歌手にしたかったようで、私は物心ついたときからピアノの前で歌の練習をさせられました。昭和の時代って、家庭の中では父親というのは絶対的な存在でしたし、しかも姉が早々にレッスンから逃げ出したため(笑)、ここで私もいなくなったら父はがっかりするだろうな…などと思ってしまい、結果的に私が、父が敷いた歌手へのレールに乗ることに。
5歳くらいで、菊池章子さんの「星の流れに」という歌をレッスンしていたときのこと。歌詞が“生きるためには身を売るしかない、こんな女に誰がした”的な内容なのもよくわからないし、そのうえ父は「歌詞を見て歌えばいいってもんじゃない、感情を乗せて!」とか言うものだから、頭の中は「??」状態(笑)。随分叱られましたけれど、無事に19歳でデビューできたときには、父も喜んでくれ、恩返しができたかな、と思いました。
長崎のご当地ソングがヒットしたのですが…。
1967年にデビューはできたものの、なかなか売れず。3年目の’70年に、『長崎の夜はむらさき』という曲をいただき、50万枚のヒットになりました。キャンペーンで長崎に行くと、駅を歩けば曲が流れ、バスガイドさんもバスの中で歌ってくれ、またタクシーに乗ればラジオから曲が聞こえてくる。嬉しさを感じるとともに、自分の歌をこんなにたくさんの方が聴いてくださっていることを実感し、歌ってすごい、ヒットするってこういうことなんだ…と、感動したのを覚えています。
このとき実は、レコード会社の方が、「地元出身だと応援してもらえるから」と、私を“長崎出身”と売り込んだんです。でも私、東京の渋谷出身なんですよ…。それを言い出せず、申し訳ないと思う気持ちをずーっと抱いたまま活動してきて、’16年に明石家さんまさんの番組で初めて、「実は…」と告白し、長崎の皆さんにお詫びをしました。でも応援は本当に嬉しかった。今でも感謝しています。
せがわ・えいこ 1947年生まれ、東京都出身。’87年に『命くれない』がオリコン年間チャート1位を獲得。シングル『愛恋川』(日本クラウン)が発売中。バラエティ番組などにも多数出演。
※『anan』2022年12月14日号より。写真・内山めぐみ スタイリスト・白石有梨香 ヘア&メイク・設楽樹加
(by anan編集部)