音楽や小説に心打たれ、世界が一変するような瞬間を、あなたは味わったことがあるだろうか。角田光代さんの新作長編『明日、あたらしい歌をうたう』は、そんなまばゆい一瞬を、読者に与えてくれる小説だ。
“書くって楽しいよな”って思えるような話を書きました
「私にしては明るい話を書きました(笑)。以前、ちょっと重めの内容を連載していた頃、小説を書くことが辛くなってしまって。連載が終わった後、発表のあてもないまま、“書くって楽しいよな”って思えるような短い話を書いて、そのまま寝かせていたんです」
それが本書の原型だ。2年ほど経って編集者に見せると出版が決まり、改めて物語を肉付けし、整えた。
息子の新(あらた)と母親のくすか、二人の視点で描かれる。新は部屋に飾られた写真の男性が亡くなった父親だと聞いて育った。が、中学生の時にそれが亡きカリスマ的ミュージシャンだと気づき、自分は隠し子だったのかと母の事情を慮る。そんな折、友人からバンドを組もうと誘われ、彼はギターを担当することに。
「有名アーティストを自分のお父さんだと勘違いしたまま成長していく男の子の話が書きたかったんです」
くすかのパートでは、彼女の来し方が語られる。娘に無関心な両親のもとで育ち孤独だった彼女は、高校生だったある日、偶然耳にした曲に心を奪われ、そのバンドのCDを買い集めていく。やがて、一人の男性と出会い…。
「有名アーティストの写真を“お父さんだよ”と言わざるを得なかった女性の話が書きたくて。くすかは誰にもコミュニケーションの仕方を教えてもらえず、友達もいない。自分が何を持っていないかも知らずに、ただ生きてきた人。くすかも新もそれぞれ、新しいものと出合うことで見えていた世の中の色合いが変わっていく瞬間みたいなものも、小説で書いてみたいことでした」
作中、実在のアーティストの歌詞が多数引用されている。分かる人には、誰の歌詞だか分かるはず。
「私は19歳の時に日比谷野外音楽堂のライブにチケットをもらって行ってファンになりました。やっぱり歌詞が好きですね。日常のことを歌っていて、“赤いコールテンのズボン”のような垢抜けない言葉を使ったりするのに、あの声で歌われると、日常の細部がすごく美しいものに思えてくるんです」
やがて新の父親に関する悲しい事実も明かされる。くすかが息子に隠していた思いを吐露する場面は切ない。でもだからこそ、物語は輝きを増していく。
「最近、重たい内容のものを書くことが多かったので、キラキラした結末にしたかったんです。音楽でもなんでも、自分のためにこれが存在していると感じることってある。その一瞬の錯覚を得た時に、人は世の中に迎え入れられたような気がするんだと思います」
それは、自分が新しい何かを受け入れたからこそ抱ける感覚だろう。そして本書は、新しい何かを受け入れたい人に、贈りたい一冊なのだ。
Profile
角田光代
かくた・みつよ 2005年『対岸の彼女』で直木賞、2007年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、2012年『紙の月』で柴田錬三郎賞、2025年『方舟を燃やす』で吉川英治文学賞ほか多数受賞。直木賞選考委員。
information
『明日、あたらしい歌をうたう』
カリスマ的ミュージシャンを父だと聞かされていた新と、孤独な人生を歩んできた母のくすか。それぞれが体験した新しい世界との出合いとは。水鈴社 1870円
anan 2487号(2026年3月11日発売)より














