【web限定ロングver.】現代中国文学の一端を知る上で、見逃せない一冊。珠玉の編が並ぶ『雪の如く山の如く』

『雪の如く山の如く』は、まとまっての日本語訳は初めてとなる、張天翼(ジャン・ティエンイー)の作品集です。著者は北京在住、80年代半ば生まれの女性。中国では、80年代に生まれた世代を「八零后(バーリンホウ)」と呼んでいます。后は「後」を意味し、それ以前のライフスタイルや嗜好を変えた、新しいカルチャーの担い手と見做されています。1979年に始まった一人っ子政策の影響をもろに受けている、中国の新世代。そんな八零后作家のひとりが彼女です。

本書は、本国で出版されるや否や同世代の共感を呼び、中国最大の読書サイト「豆瓣(ドウバン)」で2022年国内フィクション部門第1位に輝くなど、破竹の勢いを見せました。そのうちの6編が収録された邦訳版は、確かに粒ぞろいの面白さ。このたび、張さんにメールでのインタビューが叶い、本作誕生のきっかけや、創作で腐心したポイントなどを語っていただきました! 本書を担当した中国語の文芸翻訳者、濱田麻矢さんの訳でお届けします。


「lili」たちの物語は私たちの物語

6編にはみな、「lili(リーリー)」という音の名前を持つ、世代の違う女性たちが登場する。1話目の「ただ座りたいだけなのに」では、長距離電車で帰省することになった女子大学生の立立(リーリー)が、4話目の「春の塩」では、夢だったヨーロッパ旅行を予期せぬ妊娠で諦めることになった人妻の儷儷(リーリー)が登場するという具合。10代から70代までの「リーリー」の葛藤に、読者も心を打たれる。寄る辺なさや孤独感を持ちながら、どこか割り切ったたくましさも備えた彼女たちがみな、とても魅力的だ。

「英語のlilyは百合という意味で、絵画や詩歌にもよく登場し、また学校の教科書などにもしばしば出てくる名前です。私が初めて小説にチャレンジしたときも、ヒロインを茘茘(リーリー)と名付けました。どの国、どの時代にも、流行の名前がありますよね。私の成長期にはどの学年にも『麗』という女の子がいて、愛称は決まって『麗麗』(リーリー)でした。算数の文章題などにも『麗麗』がたくさん登場していました。こんな名前の女の子はごく普通の家庭の生まれで、両親も娘に大きな期待をしていません。列車で太腿を触られたとか、ナプキンがないときに生理が始まったといった話をすれば、きっと『私にもそんなことがあった』という女の子がいるでしょう。女の子たちの平凡な人生には、名前と同じように共通部分が多い。だからこそ、平凡な麗麗たちの人生を語ることには大きな意味があると思っています。liliシリーズの短編は10を数えました。最近出版した長編小説のヒロインも60歳のliliです」

各編のヒロインたちが置かれた状況は実に多彩だ。張さんは、どんなところからストーリーの萌芽を見つけ、組み立てていくのだろう。

「物語のきっかけはそれぞれです。たとえば、『ただ座りたいだけなのに』は私の実体験でもあります。20代前半の頃、長距離列車でうとうとしていて太腿を撫でられました。事を大きくする勇気がなく、触っていた男を睨んだだけでそのまま列車を降りたのですが、何度もこの出来事を思い返し、自分の臆病さを責めました。『スイマー』は名前からでした。数年前、歯科の待合室で、棚に並んだ歯型ケースに書いてある患者名を読んでいました。“凌可花”と“牛牧”という名前が目に入った瞬間とても気に入ったんです。凌可花は颯爽と泳ぐ白い水着の女性で、牛牧はたくましく心優しい救護員だ、と直感しました。そこから、仕事帰りにプールに寄るのを楽しみにしている瀝瀝(リーリー)と凌可花の関わりが広がりました。『雪山』は、病気で高校を中退した同級生がきっかけです。私が大学進学した後、彼女のお母さんがうちの店(「母はテイラーなんです」と付記あり)で母と長話をすることがありました。私の大学生活について、細かく熱心に尋ねるのです。そのお母さんは、自分の娘にも“あり得たかもしれない”人生を想像していたのではないかと思ったのが出発点になりました」

「春の塩」という作品は、語り手の視点に注目。〈わたし〉という観察者が、予定外の妊娠をしてしまった「彼女」について語る手法がとられている。

「自己からの離脱は、私が子どもの頃に編み出した小さな技です。たとえば父に叱られて壁際に立たされていたとき、私は自分を空中に浮かぶ一対の目に変えました。そして、うつむいて指をいじっている少女を見下ろすのです。彼女の涙が床に落ち、大きな黒い丸い点になっていく。私はその点を代わりに数えます。そうしていると心が落ち着くのでした。映画版『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にも解離の場面がありましたが、『春の塩』も同じです。母親になったばかりの儷儷は、重圧に耐えきれず、自分を2人に分裂させました。〈わたし〉が自分自身の観察者となったとき、苦痛は強制的に鎮められます。しかしすでに、儷儷は静かな狂気へと近づいているのです」

「年始の挨拶」は、張さん自身の実際の年始回りの思い出からだという。上流階級への過剰なまでの憧れを持つ夫婦と幼い娘の話なのだが、冒頭からぞわぞわする空気に満ちている。

「中学生の頃のある正月、私は叔母と親戚の家へ年始の挨拶に行きました。老夫婦しかいない家の中はひどく不潔で、空気も淀んでいました。おばあさんは薄汚れたパグ犬を抱っこしていました。この家の息子は殺人罪で死刑となっていて、おばあさんは前触れもなく銃殺の話を始めたんです。『弾丸の費用は遺族が払わなくちゃいけないのよ』と言われて言葉に詰まりました。暗くなっても部屋の灯りはつけられず、会話も詰まりがちでした。ようやく暇乞いしたときは、叔母も私も肩の荷が下りた思いでしたが、その叔母の息子も窃盗で実刑判決を受けていたんです」

国は違っても、女性たちに起きることは同じ

いくつかの作品に、セクハラや性暴力の理不尽さが描かれる場面が出てくる。中国でも女性たちは似たような経験をしているのだと感じ、胸が痛くなるのだが、こうしたエピソードは、小説に現代女性のリアルを描いていると否応なく出てくるということなのだろうか。

「その通りです。私はプールで不快な経験をしたことがあるのですけれど、『スイマー』では2人の女性と善良で聡明なスタッフが卑劣な痴漢に立ち向かう姿を描きました。けれど『年始の挨拶』に出てくるような幼い娘をどう救えばいいのか、私がまだ答えを見つけられていないものもあります。また、先ほど話したように、『ただ座りたいだけなのに』で立立が味わった憤りや嫌悪感も私の体験です。あの手が私に触れたのは数分だけでしたが、頭の中では、私は何年ものあいだ触られ続けたんです。その2年後、私は太腿を触った男を内気な青年として小説に描きました。彼は私に睨まれて狼狽し、顔を赤らめます。その後、列車内で私の鞄が盗まれたことに気づいた彼は勇敢に犯人へ立ち向かい、私のために刺されて血だまりに倒れる……。私は彼を英雄に仕立て上げて罪を贖わせることで、この出来事を許そうとしたんです。なんと愚かだったんでしょう。そこで2度目の挑戦としてこの『ただ座りたいだけなのに』を書いたんです。余談になりますが、伊藤詩織さんの訴訟は中国でも注目され、多くの女性が『伊藤さんが勝った瞬間、涙が出た』とネットに書いていました。伊藤さんの著書『Black Box』にこんな一節があります。《彼を罵る言葉を頭の中で探した。それまで私は「やめてください」と繰り返し懇願していたが、あまりにも弱々しかった。私は英語でこう叫んだ。“What a fuck are you doing!”……上司になるはずだった山口には、それまでずっと敬語を使っていた。年上で地位の高い男性に対して女性が使える対等な抗議の言葉を、私は自然に口にすることができなかった。もしかすると日本語にはもともとそうした言葉が存在しないのかもしれない》。中国でも、罵倒語の多くは女性が口にしづらいんです。それでも私は信じています。あきらめずに努力し続ければ、未来はきっと変わるのだと」

そんな希望の片鱗を感じさせるのが「スイマー」や「雪山」だ。「雪山」は、ショッピングセンターで働く麗麗が、亡き息子の初恋の相手と再会することで浮かび上がる悲喜こもごもの物語。その中で、ショッピングセンターの迷惑客と若い被害者店員との顛末が描かれ、痛快だ。

ちなみに、張さん自身が特に気に入っているのは、「スイマー」と「床の上の血」だという。「床の上の血」で、粒粒(リーリー)は1年前に再婚した母に会いに故郷へ戻る。

「数年前、ちょうど生理中に天津の実家に帰省しました。帰る日の朝、母がバス停まで送ってくれたんですが、発車が迫ってきたときに私は洗面所に忘れ物をしたことに気づいたんです。母に荷物を見てもらい、急いで家へ戻って洗面所に入ったとき、白いタイルの上に血のしずくが落ちているのを見つけました。母は閉経していましたから私の血に違いありません。拭き掃除する時間もなく家を後にしたのですが、まるで私の体のごく小さな一部を置いてきたような気がしました。母はあれを見て“娘のかけら”だと思っただろうか。拭き取るのを少しためらっただろうか。白いタイルの上の血は私の脳裏で鮮やかな赤を保ち続けました。本書の中国語版では挿絵も担当したのですが、この『床の上の血』では自分の足の写真を撮り、それを見て絵を描いたんです。本が完成した後、母がメッセージをくれました。『あの挿絵の足はあなたのでしょ? 指が一本だけ曲がってるもん』。その言葉を見たとき、涙が滲みました」

日本のマンガや小説から受けた影響

張さんは以前、文芸誌『群像』のインタビューで、子どもの頃に日本の小学生の作文の自由さに惹かれたと答えていた。最後に、張さんが影響を受けた日本のカルチャーがあるかを尋ねた。

「中学生の頃にいちばん好きだったのは高橋留美子でした。当時、貸本屋で日本のマンガは1冊5角(1元=10角)で、みんなで回し読みしました。私は『犬夜叉』や、そのヒロイン・日暮かごめの二次創作まで書いたんです。高校時代に大きな影響を受けたのは村上春樹で、みんな『ノルウェイの森』を読んでいました。性が自然に清潔に、まるで詩のように、あるいは長く心に残る音楽のように描かれているのが印象的でした。他に特に好きだったのは『国境の南、太陽の西』と『神の子どもたちはみな踊る』です。私の最初の短編集(未邦訳)には、かなりムラカミ的な人物が登場します。深夜の地下鉄で他人が読んでいる本の題名を当てようとする謎めいた少年とか、熱愛の最中に突然姿を消す恋人とか、世界終末の日に自分のCDを買ってくれたたった一人の人間を探して街を横断するバンドのボーカルとか。近年大きな影響を受けたのは上野千鶴子です。『女ぎらい  ニッポンのミソジニー』や 『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』は何度読んでも新しい発見があります」

Profile

張天翼

ジャン・ティエンイー 1980年代半ば、中国・天津生まれ。北京に夫と暮らす。今のところ猫は飼っていない。本作は、中国の読書サイト「豆瓣(ドウバン)」でフィクション部門第1位を獲得。

information

『雪の如く山の如く』

原題は『如雪如山』。原著は7編、邦訳版では6編を収録。最初『雪山』としていた総表題を1年吟味し、現在の形に。“如く”を加えることにした理由は「女と口の出番を増やしたかったから」。https://www.bungei.shueisha.co.jp/shinkan/yukinogotoku/

集英社 2420円

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写真・中島慶子(本) インタビュー、文・三浦天紗子

anan 2506号(2026年7月29日発売)より
Check!

No.2506掲載

夏のチャージ&デトックス Recipe

2026年07月29日発売

長引く夏を乗り切るための「夏のチャージ&デトックス Recipe」特集。 いま大人気の料理家・長谷川あかりさんとフリーアナウンサー・岩田絵里奈さんの調理対談のほか、黒木華さん、XngHanさんがオリジナルのリカバリーレシピを紹介する企画も。

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