
生きることが、おのずと作品に直結していく作家にとって、旅はどんな意味を持つのだろう。移動をともなう旅のみならず、お互いの著作を通して体験した旅の軌跡と、その対話。
加藤シゲアキ(以下、加藤) 朝吹さんの小説『TIMELESS』を最初に読んだとき、異なる時間と空間が物語のなかでシームレスに馴染んでいるのが印象的でした。僕のエッセイ『できることならスティードで』は広い意味の旅がテーマで、時間や場所の捉え方に共通するものを感じました。文庫版の解説を引き受けてくださって本当にうれしかったですし、改めてお礼を言いたいです。
朝吹真理子(以下、朝吹) 加藤さんの文章をそのとき初めて拝読しました。岡山に住んでいたおじいさんの思い出話や、子供の頃から見られることを体験していて、デビュー間もない頃の決して明るくないお話も、今しか書けない文章であることが伝わってきました。“書かれなかったこと”も想起して、胸苦しくもなりました。解説にも書いたのですが、パリのレストランで唐突に鼻血を出すくだりが、すごく好きでした。そんな事件が起こったら、微に入り細に入り書きそうなものですが、鼻血という強烈なワードを出しながら行でさらりと終えて、別の話に移るのが面白くて。
加藤 ひとりでレストランに入って、お会計のしかたがわからず様子をうかがっていたのですが、フランス人はランチが長いから誰も会計をする気配がなくて。聞いてみようと意を決した瞬間、鼻血が出た気がします。でも僕は頻繁に鼻血が出るので、このときも大して動じていなかったはず。鼻血のプロなんですよ(笑)。
朝吹 だから抑制が利いていたのですね。お会計に混乱して焦って噴き出たのも愉快です。鼻血のプロに初めてお会いしたのですが、珍しい気がします。鼻血を軸にしたロングエッセイを書いてほしいです。
加藤 考えておきます(笑)。朝吹さんは、最近どこか行きましたか?
朝吹 友達と一緒に坂東玉三郎さんの公演を観に熊本へ行って、そのあと阿蘇山に登りました。
加藤 阿蘇山は修学旅行で行った思い出があります。
朝吹 梅崎春生の『幻化』という小説に出てくる、阿蘇山の火口が見たかったのですが、現在は立ち入り禁止になっているので、子どもの頃に行けたのはうらやましいです! 阿蘇の温泉は浸かったあと、日くらい硫黄のにおいが体からしていました。加藤さんは温泉好きですか?
加藤 好きですね。サウナもよく行きます。
朝吹 鼻血は大丈夫なんですか?
加藤 プロなので、多少のことではうろたえません(笑)。デジタルデトックスじゃないですけど、サウナで考えごとをするのが好きなんです。作品について考えることもあるし、『ドラえもん』の新しい話を勝手に作ってみるみたいな大喜利的なこともしています。アバウトですけど、日本各地の有名サウナの地図が頭の中に入っていて、最近はサウナありきで旅先を決めることも。今いちばん行きたいのは知床なんですけど。
朝吹 知床! 以前、ひとりで流氷を見に行ったことがあるのですが、流氷ウォークのアクティビティに参加して、ドライスーツを着て流氷の上を歩いてみたり、流氷の割れ目から海に入ってプカプカ浮いたりして、とても楽しかったです。ひとり旅、いいですよね。人を訪ねて話を聞く、時間と記憶をめぐる旅。
加藤 朝吹さんの新刊エッセイ『信号旗K』でも、いろんな人に会いに行く旅をしてますよね。
朝吹 取材と称して、毎回5〜6時間おしゃべりしていたので、それに付き合ってくださるみなさんは本当に優しいですよね。普段ひとりで小説を書いていると孤独なので、誰かと会ったときは、たくさん話がしたくて。初めましての方もお知り合いの方もいて、普段話さないようなことも取材と称して伺って、いろんなことをお聞きしました。数時間もおしゃべりをしていると、後にも先にも一回しかない会話がたくさんありました。
加藤 今のお話を聞いてなおさら思うのですが、社会学的なフィールドワークを読んでいるようでした。長時間のおしゃべりから、朝吹さんが書き残したかったことが伝わってくるからだと思います。戦争体験や被災体験など扱い方が難しい話も、朝吹さんが書くといい意味で軽やかになる。その読み心地のよさは小説にも近く、『TIMELESS』と呼応しているように感じました。
朝吹 とてもうれしいです。ありがとうございます。
加藤 朝吹さんの文章がフックとなって、すっかり忘れていた僕の体験を思い出し、立ち止まることを繰り返していたので、読み進めるのに時間がかかったのも新鮮でした。たとえば表参道の交差点に立つ石灯籠には、焼夷弾の着弾痕があるという話が出てきますが、僕も以前その話を聞いたことがあって、記憶が蘇る過程はまさに旅のようでした。
朝吹 もともと私は、訪ねた場所の道そのものに関心がありました。というのも、人間が隠したいようなことや忘れたいことも、道は全部覚えているんじゃないかなと思うことが結構あって。いつも見かける灯籠も、焼夷弾が落ちて欠けていることを知った瞬間から、そこを通るたび空襲を思い出すようになりました。聞き取りにおじゃましているとき、戦中以外の話を聞くことも好きで、動物の話をしていたのに、急にまた戦前の記憶に戻ったり、ひとりの人の体に流れている時間を行き来する感覚が好きなんです。自由に話していただきたいので、質問することも決めずにお会いしたくて。聞きたいことを先に用意しておくと、決まった答えが返ってくる気がするので、ただおしゃべりをする、ということがとても大事だと思っています。
加藤 僕は生まれが広島なので、広島のお仕事をいただくことが結構あって。これまでいろんな方から戦争の話を聞いたのですが、人の数だけ体験があるから聞き終わることは一生ないと感じます。共通の出来事だとしても、ひとりひとりまったく別の体験なので、すべてが貴重ですよね。『なれのはて』という僕の小説は、秋田の空襲を題材にしています。戦争は広島や沖縄など多くの人が知っている場所だけでなく、どこでも起こっていたという気づきがきっかけのひとつになっていて、執筆当時の気持ちも呼び起こされました。
朝吹 最初のうちは、悲惨な話や教訓めいたことを教えてくれるのですが、何度もお会いして親しくなってくると、当事者しか言えないような人間味のあるちょっと不謹慎な話を聞けることもあります。その両方を聞きたいあまり、同じ話を何度もしつこくお願いして、怒られてしまうこともあります(笑)。
加藤 やまない好奇心なのでしょうね。どんなに聞いても、満たされない感じなのでしょうか?
朝吹 同じ内容でも、質問の仕方や語る場所が変わると、毎度お話が変わってゆくんですね。それが面白くて、つい何度も聞いてしまいます。
加藤 伊集院静先生に初めてお会いしたとき、「35歳まではとにかく旅に行きなさい」と助言をいただきました。その年齢は過ぎたけれども、小説は身体で書くものなのだと教えてくださったのだと思っていて。
朝吹 いやあ、肉体労働ですよね。
加藤 脳が行き詰まっても、身体の記憶で書けるときがあって、ブレイクスルーの手段のひとつになっています。旅先でも、この時間や体験が小説になるかもしれないと思うと、脳に刻まれる深度が変わるような気がします。結果、旅自体もより楽しめるのは作家の特権だと思います。
朝吹 私は、体の半分がカレンダーの日付と、もう半分が小説のなか、同時に流れている感覚があります。自分が移動するとき、小説も一緒に移動しているのかもしれません。旅先で本を選ぶのも好きで、たまたま見かけた本屋さんで好きな本を見つけて急に読みたくなって買ったりします。だから家の本棚には同じ本が3冊並んでいることもあって、不思議に思って開いてみると、旅先で立ち寄った資料館の入場券が挟まっていて「そういえば」と思い出したり。数年経った旅を思い出すきっかけになります。
『信号旗K』

人や場所との対話を通し、記憶に迫るエッセイ。
〈信号旗K〉とは「私はあなたと通信したい」という意味を持つ国際信号旗のこと。幅広い年代・ジャンルの人、縁のある場所を訪れ、対話を重ねたエッセイ集。新津保建秀氏の写真も多数掲載。マガジンハウス 3300円
『できることならスティードで』

身体の旅、思索の旅で 道を見据えたエッセイと掌編。
キューバ、大阪、パリ、スリランカ紀行から、学校に行く意味を考える「小学校」、故ジャニー喜多川氏への想いを綴った「浄土」まで、広義の旅をテーマにしたエッセイ集。“旅する”掌編小説3編も。朝日文庫 693円
Profile
朝吹真理子
あさぶき・まりこ 東京都生まれ。2009年「流跡」で作家デビュー。'11年「きことわ」で芥川賞を受賞。著作に『TIMELESS』『抽斗のなかの海』など。今年秋に長編小説『ゆめ』(河出書房新社)を刊行予定。
加藤シゲアキ
かとう・しげあき 大阪府出身。2012年『ピンクとグレ ー』で作家デビュー。'21年『オルタネート』で吉川英治文学新人賞、高校生直木賞を受賞。著作に『閃光スクランブル』『ミアキス・シンフォニー』など。
写真・小笠原真紀 中島慶子、北尾 渉(本) スタイリスト・吉田幸弘(加藤さん) ヘア&メイク・茂木美鈴(加藤さん) 文・兵藤育子
anan 2505号(2026年7月22日発売)より
































