最高傑作は岡本太郎自身。その生涯に迫る展覧会。
展覧会は川崎市岡本太郎美術館と岡本太郎記念館、海外の美術館からの全面協力のもと、代表作や重要作が集合。太郎が中学2年のときに描いた水彩画から、晩年に描いた絵画まで約300点が一堂に集められた。また、残っていないと思われていた若き日の太郎がパリで描いたとみられる3点が展示されるのも朗報だ。全6章で構成された展示からは、太郎の表現領域が驚くほど広いことに気づかされる。絵画はもちろん、日用品、スカーフからこいのぼり、お寺の鐘、時計、飛行船、近鉄バファローズのシンボルマークまで!
こうした作品を太郎が手掛けたのは「芸術は大衆のもの」という信念から。芸術とは生活の中にあり、金持ちやエリートのものでなく、民衆のもの、社会のものだと考える太郎は、絵画を売らない生涯を貫いた。
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という彼の名言通り、作品から感じられるのは不気味な熱。すべてを生命体として描いた彼の表現は、猛烈なその生き様をも伝えてくれるはずだ。
芸術家・岡本太郎の誕生
19歳の冬に家族とヨーロッパに渡った太郎は、ピカソの作品に衝撃を受け、前衛芸術家や思想家たちと深く交わり、自身も最先端の芸術運動に邁進するようになる。パリ大学では民族学を学び、自身の土台となる思想を深めていった。
岡本太郎《傷ましき腕》 1936/49年 川崎市岡本太郎美術館蔵
力を入れた前衛美術芸術運動
日本美術界の変革を目指し、太郎は「夜の会」を結成。また抽象と具象など対立要素が生み出す「対極主義」を掲げ前衛運動を開始する。さらに著書『今日の芸術』がベストセラーとなり文化人としても注目される。
左・岡本太郎《森の掟》 1950年 川崎市岡本太郎美術館蔵
右・岡本太郎《夜》 1947年 川崎市岡本太郎美術館蔵
魅了されてきた呪術的な世界観
前衛芸術を推す一方、日本文化にも目を向けた太郎。1951年に出合った縄文式土器をはじめ、日本各地に残る神事など現地調査を実施し洞察。民族学から日本文化の新しい価値を提唱。この見聞が《太陽の塔》へと繋がってゆく。
左・岡本太郎《イザイホー》(沖縄県久高島) 1966年12月26‐27日撮影 川崎市岡本太郎美術館蔵
右・岡本太郎《縄文土器》 1956年3月5日撮影(東京国立博物館) 川崎市岡本太郎美術館蔵
大衆芸術への眼差し
芸術とは生活そのもの。そう考える太郎の表現は画廊や美術館を飛び出し、壁画や屋外彫刻などパブリックアートから、時計や植木鉢、生活用品にまで広がった。
左・岡本太郎《光る彫刻》 1967年 川崎市岡本太郎美術館蔵
右・岡本太郎《犬の植木鉢》 1955年 川崎市岡本太郎美術館蔵
ふたつの太陽
1970年の大阪万博。そのテーマ館として太郎が手掛けた《太陽の塔》は、生命の根源的エネルギーの象徴。これと並行して描かれたのが現在、渋谷駅に設置されている巨大壁画《明日の神話》。太郎が残したドローイングや資料とともにこの2作品の意味を紹介する。
上・【参考図版】岡本太郎《太陽の塔》 1970年(万博記念公園)
下・岡本太郎《明日の神話》 1968年 川崎市岡本太郎美術館蔵
『展覧会 岡本太郎』 東京都美術館 東京都台東区上野公園8‐36 開催中~12月28日(水)9:30~17:30(金曜~20:00、入室は閉館の30分前まで) 月曜休 一般1900円ほか 日時指定予約制 TEL:050・5541・8600(ハローダイヤル)
画像はすべて、©岡本太郎記念現代芸術振興財団
おかもと・たろう 1911年、神奈川県生まれ。人気漫画家の岡本一平、歌人で小説家のかの子の長男。東京藝大を半年で中退し、10年間渡仏。現地の画廊で出合ったピカソの作品に衝撃を受け、抽象画を志す。『今日の芸術』ほか、著書も多数。
※『anan』2022年10月22日号より。文・山田貴美子
(by anan編集部)