音楽に心を揺さぶられたり、救われたりした経験は、誰にでもあるはず。売野機子さんにとっても、音楽はなくてはならないものだった。
売野機子

「男の人って、たとえばロックが好きなんて言おうものなら『どんなの聴いてるの? オレ、多分わかるから言ってみなよ』って感じで上から来たりしません?(笑) しんどいときに救われてきた音楽は、聖域みたいなものだから、やすやすと立ち入られたくないのかもしれません」

本作『売野機子のハート・ビート』に収められている4つの短編からは、売野さんがいかに音楽を大切にしているかがひしひしと伝わってくる。たとえば明け方の歩道橋で出会った有名バンドマンと一般人の恋物語。音楽教授の母のもとに通う年上の美少女に、恋心を抱く少年。家庭内にいながらイヤホンで音楽を聴いている夫の姿に不安を覚える妻。歌姫の心をなかなか開くことのできない、新人音楽ライター……。それぞれの人にとっての音楽という聖域が交わるかけがえのない瞬間が、ときに静謐に、ときにドラマティックに描かれていく。音楽にまつわる記憶はどれも個人的なものであるはずなのに、深く共感してしまうのは、売野さんの物語に、ある種の懐かしさや切なさが存在するから。

「回想が好きなんです。ドキドキする構造には、物理的な移動と時間的な移動が関連していると思うのですが、どちらかを入れるよう意識しています。自分が納得しないと描き終えられないタイプで、言葉の選択にも時間がかかってしまうんです」

売野機子

50ページ前後という短編としてはちょっと長めの物語は、本人が得意とする尺だけあって、思いがけない広がりを見せ、独特の余韻を残してくれる。好きな音楽を尋ねられるたびにうまく答えられなかったモヤモヤした気持ちは、「夫のイヤホン」という短編に描けた気がする、と晴れやかな表情を浮かべる売野さん。実はつい最近も、ある音楽に助けられたばかりなのだとか。

「自信を持たないとマンガを描けないので、自尊心のシャワーを浴びようと思って、hitomiさんのベストアルバムを購入したんです。そしたらすごく強気になれて、高橋尚子さんがレース前に聴いた理由がよくわかりました(笑)」

うりの・きこ マンガ家。『薔薇だって書けるよ』『クリスマスプレゼントなんていらない』など著書多数。月刊誌『バーズ』4月号(発売中)にて新連載「ルポルタージュ」がスタート。

正体を明かさず女性と付き合い始める有名ミュージシャンを描いた「イントロダクション」など、音楽をモチーフにさまざまな立場の心情を繊細に映し出す短編集。祥伝社 680円(C)売野機子/祥伝社フィールコミックス

※『anan』2017年3月22日号より。写真・森山祐子 インタビュー、文・兵藤育子

(by anan編集部)


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