燃え殻「紆余曲折の果ての景色」|anan創作連載シリーズ

いま注目の文筆家のエッセイ、小説などの創作を4号続けて掲載。今回は2488号(2026年3月18日発売)から、燃え殻さんのエッセイ第2回「紆余曲折の果ての景色」をお届けします。


去年、久しぶりにトークイベントをいくつか開催した。五年、六年ぶりだった。

空白の期間、ありがたいことにお誘いは何度かあったが、どうしても気が進まなくて断っていた。理由は、一度トークイベントのお客さんが、六人だったことがあったからだ。

恥を忍んでいうと、六人のうちの何人かは出版社の方だったと思っている。その日は、関東地方に台風が近づいていて、担当編集が「今日、台風ですから……」と、いかにもな言い訳で、僕を一生懸命慰めてくれた。でも、あくまで台風は近づいていただけで、会場近くは、ただの曇りのち曇りという天気だった。会場となった書店の営業の方が、窓の外をぼんやりと、いかにも不満そうに眺めていたのを憶えている。

それが軽いトラウマになり、「トークイベントいかがでしょうか?」と訊かれるたび、あのときの営業の方の憂鬱そうな顔がチラつき、「すみません、いまはちょっと……」と反射的に断るようになっていた。

それが、五、六年ぶりに開催することを決意したのは、なんてことはない、背に腹はかえられなかったからだ。エッセイ集の部数が、どんどん落ちてきて、初版を減らされ、「なにかしらテコ入れをしていきましょう」という話になったのだ。とりあえずなんでもやってみるしかないので、まずはトークイベントを引き受けることにした。売上が落ちてきたから、観客六人がトラウマで辞退していたトークイベントを再開。落語のような展開だが、本当のことなので仕方がない。

トークイベントの情報解禁の日は、さすがにかなり緊張した。観客六人ふたたび、だったらどうしようかと思ったのだ。それが蓋を開けてみると、予約があっという間に百名を超えた。かなりの間が空いたのがよかったのか、なんだったのか、理由はイマイチわからないが、とにかくホッと胸を撫で下ろした。

当日、サイン会にも長蛇の列が出来て、これまた心からホッとした。一人ひとりと、サインをしながら二言三言、話しては握手をしていく。

いつも仕事場や喫茶店で、ひとりで原稿に向かっているので、読者の方々と、直接いろいろな話ができたのは、市場調査としても興味深かったし、なによりも、この人たちが読んでくれているのかと思うと、俄然やる気が湧いてきた。トラウマなど気にせず、もっと早くにこういうイベントを再開するべきだったと後悔するほどに、楽しいひとときだった。

百名近くサインを書いて書いて、最後のひとりまできたときのことだ。

「おつかれい!」

一瞬、誰だかわからなかったが、その男性は、僕が二十代前半のときによく一緒に酒を飲んでいた、昔のバイト仲間の男だった。無精髭が伸びに伸びてて、最初、まったくわからなかった。会うのは二十五年ぶり。彼は、二十代の前半だった頃、演劇の役者を目指していた。あれからずいぶんと時間が経った。フリーターだった僕が、テレビ業界の末端で働き、巡りめぐって作家になるくらいの時が流れた。

「驚いた〜。いま、なにやってんの?」

思わず、彼にそう聞いてみた。

「なにって、役者を目指してるに決まってんだろ!」

彼は真顔でそう言う。

「えっ?」

僕は久しぶりに本気で驚いてしまった。

「だって……」までこちらが言うと、「だってもなにもないだろ。いやしかし、お前が作家とはな。めでたいなあ」と彼は遮るように言った。僕は唖然としながら、自動書記のようにサインを書く。

「ありがとう! とりあえず今度飲もうぜ」

彼はそう言って、連絡先をメモしたクシャクシャの紙を、僕に渡して去っていった。あまりに驚き過ぎた僕は、その日の帰りに、早速彼に連絡を入れてしまう。すると、下北沢で彼女と飲み始めたところだという。それなら別日にゆっくり、と返そうとしたら、「◯◯覚えてるだろ? 彼女も会いたいって言ってるから来いよ!」と彼。

「○○!?」

またしても本気で僕は驚いてしまった。出来ることなら腰を抜かしたかった。それくらいに驚いた。その昔、僕と彼と彼女の三人で、よく一緒に酒を飲んだ。それも当たり前だが二十代前半頃の話なので、二十五年は前のことだ。さらに、いま彼らが飲んでいる店も、昔一緒によく飲んでいた、下北沢の居酒屋だった。

時が戻ったような不思議な感覚を味わいつつ、僕は井の頭線で、下北沢まで急いだ。

「おお、ここ!」

雑多な店内の奥の四人席で飲んでいた、彼と彼女が恥ずかしいくらい大きくこちらに向かって手を振ってくる。彼女は年相応には見えたが、雰囲気はまったくあの頃と変わっていない。服装の系統も同じような感じだ。彼もイスの上であぐらになる姿勢を含めて、あの頃のままだ。多少白髪が目立ってきてはいたが、格好もパーカーにジーンズと変わらない。腕にはG-SHOCK。そこまで一緒だった。店内を見渡してみると、昔通っていた頃からあった、色褪せたハイサワーのポスターが、しぶとくまだ貼ってある。懐かしいなあ、とすっかり忘れていたのに、思わず声が漏れてしまう。

「この人ね、役者も目指してるんだけど、最近はね、小説も書いてるんだよ」

彼女は嬉しそうにそう言った。もう五十だぜ、なんて言える雰囲気じゃない。

「やめろって! 先生の前で」

彼が茶化すように僕を立てる。「小説書いてるの?」と僕が尋ねると、「まあな。まだ途中だけどな……」と彼はまんざらでもなさそうに言った。

「私、読んだんだけど、これ本当マジなんだけど、泣いたの」

彼女のその声が懐かしい。

「お前、なんでも泣くからな」

彼が照れ臭そうにそう突っ込む。あの頃、役者になりたいと言っていた彼のことを、丸ごと全部、彼女は信じていたのを思い出した。突っ込んだあとに、「ありがとう」と彼女に向かって、彼がそう言って、頭を下げた。当たり前じゃんね、と彼女は嬉しそうに笑って、枝豆をポンポンと口に放り込んだ。彼女もライトの下だと、たしかに年齢を感じさせたが、どうにも振る舞いがあの頃と同じで、思い出補正され、昔のままの彼女で再現されてしまう。

僕は目の前で見せられている光景が一体なんなのか、よくわからなくなってきた。とりあえず、酎ハイをひとつ注文してみる。

「いま役者は開店休業中。まあ、人生一度きりだからさ。で、小説も書いてさ、それが実写化なんて話になったら、自分が主役じゃないとダメって、出版社に言ってやろうかと思ってさ」

彼がそう言っている間、彼女はホッケ焼きを箸でずっとほぐしている。

「まあ、そんなにうまくいかないのはわかってるけど、夢は大きくだから。お前が本出してるの知ったときは驚いたよ〜。で、サイン会に登場したわけだよ」

彼はなぜだか誇らしげにそう言った。「ありがとう」と今度は僕が言う。「どういたしまして」と彼女がふざけながらそれに答えて、全員で笑った。

そのあと、未だに彼が、アルバイトを二つ掛け持ちしていること、彼女とは同棲しているが、家賃はほとんど彼女が出していることなどを教えてくれた。最初は、まるで時が戻ったかのように見えたが、もちろんそこには紆余曲折いろいろとあった。共通の知り合いの近況も、聞くたび「えーっ! 自己破産!」「ええっ、あの先輩が双子のお母さん!」などなど、話は尽きなかった。

すっかりアルコールが回り、気がつけば、外が白んできていた。彼はウトウトを通り越し、壁にもたれかかって、すっかり眠ってしまっている。彼女がそんな彼を見ながら、「変わらないでしょ〜?」と僕に向かって言う。羨ましかった。この二十五年、いろいろあった。彼にも彼女にも、もちろんいろいろあったのだろう。だが二十五年ずっと、彼女は彼の才能を信じて生きてきたことは間違いない。だから彼も安心して、ずっと表現者を気取っていられたのだろう。

あの、六人しかお客さんが来なかったトークイベントのことを、僕は思い出していた。六人のうちの何人かは、出版社の方だったが、ひとりかふたり、あのとき、予定を空けて、わざわざトークイベントに足を運んでくれた読者がいた。その読者のことを、僕はもっと信じるべきだった。いや、いまからでも遅くはない。たったひとりの理解者がいれば、もうそれで十分だということに、やっと気づくことが出来た。物を書くということで、たとえ食べていかれなくなったとしても、胸を張って生きていける気がした。

彼女が、彼の鼻をつまんで遊んでいる。「ブハッ」と彼が息を吹きかえす。居酒屋の窓から注がれる朝の光が、夜が明けたことを教えてくれていた。

僕はこの情景を一刻も早く、文章に残したいとそのとき思っていた。

連載第3回は3月25日(水)発売の『anan』2489号に掲載!

information

2026年3月25日発売のanan 2489号の特集は、暖かい気候がベストな今だからこその“おさんぽ旅”をナビゲートする「推し旅 2026・春」。今回の旅特集も充実のラインナップです! レトロで美しい町並みが素敵な萩&津和野、東京都内で自然を求めて電車で訪ねる奥多摩、美味も景色も満喫できる福岡県の博多&志賀島、自然の景観込みで楽しめる群馬県・土合の旅サウナ。

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Profile

燃え殻

もえがら 1973年、神奈川県横浜市生まれ。小説家、エッセイスト。2017年『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。著書に小説『これはただの夏』、エッセイ集『明けないで夜』『これはいつかのあなたとわたし』などがある。J-WAVE『BEFORE DAWN』のナビゲーターを務める。

イラスト・Naffy

anan 2488号(2026年3月18日発売)より
Check!

No.2488掲載

カラダが整う、不調改善ケア 2026

2026年03月18日発売

嬉しい春の到来! でも、気温や気圧の変動、花粉、周りの環境の変化などで、なんとなくモヤモヤとした不調を感じている…という人も多いのでは? この特集では、そんな人に向けて、習慣化して毎日続けやすい、体調改善のための簡単TIPSをたくさんご紹介!

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出⼝の⾒えない閉塞感の中で、⼼が乱れてしまうことってありますよね。不安になってあれこれしてみても、今はかえって状況を複雑にしてしまいそうです。⼀度、無理に答えを出そうとするのをやめて、⼼の波を静めてみましょう。あなたが落ち着きを取り戻せば、周りからの助けに気づく余裕も⽣まれ、活路が開けてくるはず。

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