実は繊細な心理を表している! 「愛しい」という言葉の意味は。
言語学的な観点から「愛しい」にアプローチ。辞書に記されている意外な意味や、言葉の中に含まれているニュアンス、語源などを言語学者の金田一秀穂先生が解説。その豊かで奥深い意味を知れば、これまで以上に思いを込めて、より大切な場面で使いたくなるはず。
「愛しい」は苦しいほど好きな思い。
辞書によると「愛しい」は、(1)かわいい、こいしい。(2)かわいそうだ。を意味する言葉(『新レインボー小学国語辞典改訂第6版』学研プラス/金田一春彦・金田一秀穂監修より)。一般的に(1)の意味で使っている人が多いと思うけれど、「かわいそうだ」という意味もあるなんて! しかも、まるで違う意味が一つの言葉に同居しているのも興味深い。
「実は日本語には、『愛しい』のように相反する意味が一緒になっている言葉が少なからずあるんです。似たようなところでいうと、『胸キュン』なんてまさにそう。“キュン”って胸が締めつけられるような状態を表す言葉ですよね。でも、ただときめいていれば、胸は苦しくならずに済むはず。そうじゃなくて、ときめきと同時に苦しさも伴うのが『胸キュン』なのです。同じく『愛しい』も、かわいそうとか気の毒とか、ある種の痛みを感じるほど、かわいい、こいしいと思っているということ。単なる『かわいい』だけにとどまらず、それ以上の気持ちを表す言葉なのです」
「愛しい」は「厭う」が語源との説。
そもそも「愛しい」の語源は、嫌うという意味を持つ「厭う」とされている。
「『嫌い』と『かわいい』は対極の意味ではありますが、古(いにしえ)より日本人は、この2つの気持ちがごく近くにあると感じていたようです。かわいいと思っているぶん、大嫌いになることもあるし、その逆もある。『厭う』が転じて『愛しい』になったのは、そんな心模様を表してのことでしょう。日本語には『愛しい』のほかにも、辛さと喜びが混ざった感情を表現した言葉がさまざまあります」
ちなみに「愛しい」の2番目の意味には語源の「厭う」にも通じる「かわいそうだ」があるが、その意味で「愛しい」を使うことは現代語ではまずないという。それでも辞書に載っているのはなぜ?
「使わないとはいえ『かわいそうだ』を省いてしまうと、『愛しい』の本来の意味が伝わらなくなるからだと思います。『かわいそうだ』もあることにより、単純な言葉ではないとわかるはずです」
平安時代から使われている!
「愛しい」は「愛おしい」という言い方もするが、この2つには意味や使い方の違いがあるのだろうか。
「意味はどちらも同じ。ただし、『愛しい』より『愛おしい』のほうが古い言葉のようですね。時を経て言いやすいように『愛しい』と短くなったのでしょう」
では、もとの言い方である「愛おしい」は、いつ頃から使われるようになったのか。歴史を辿ると、平安時代の文献に登場していたことが明らかに。
「『源氏物語』にはよく出てきますし、『竹取物語』でも使われています。どれもそれこそ『かわいい』と『かわいそうだ』の両方を含んだ意味合いで用いられている。昔の日本人は研究熱心というか、自分の感情にぴったり当てはまる言葉を、一生懸命考えていたんでしょうね。それを紫式部や清少納言が著すことで、読んだ人たちが『この気持ちわかる!』と使うようになり、広まっていったのです」
会話の中で使わないのはなぜ?
「愛しい」の用途については、少し不思議なところもある。小説などの文章や歌詞の中には出てくるのに、日常会話であまり使わないのはどうしてなのだろう。
「それは古い言葉ならではのわかりにくさがあると思います。そもそも意味も複雑です。文章の場合は、それがむしろ言葉の深みにつながりますが、会話となると『好き』と言ったほうが簡単だし、伝わりやすい。だから話し言葉の中ではあまり使われないのでしょう。ただ、このようにありきたりの話し言葉になると、言葉の意味が軽くなってしまう。やはり『愛しい』と言ったほうがふさわしい感情はありますし、とてもいい言葉でもあるので、日常会話でも使う人が増えるようになったらいいなと思います」
とはいえ、安易に使いすぎると、言葉の価値が下がってしまうという。
「たとえば『絆』なんて、そうですよね。本当はとてもいい言葉なのに、一時期使われすぎて、空々しい印象になってしまった。言葉の意味を実感せずになんとなく使っていると、嘘っぽく聞こえてしまう。だから『愛しい』も、まずはその意味をきちんと理解することが大切だと思います。実感できていないうちに使うと変な感じがすると思いますが、何かに対して愛しいという感情が納得できたときには、違和感なく言葉にできるはず」
愛しい対象は大切で守りたい相手。
では、「愛しい」という言葉は、何に対して使われるのか。
「一番顕著なのが、お母さんから子どもに使う場面です。そこには相手をとても大切に思う気持ちがあって、だからこそ守りたくなる。どちらかというと保護的な関係で使われるんです。あとはペットとか、自分より弱いものに対して使うことが多いような気がします」
基本はそうであれ、たとえば大人の男性など、自分より弱くなさそうな相手に対して「愛しい」気持ちになることもあると思うけれど…。
「相手にかわいさを感じるなら、その人が自分より弱くなくても愛しいと思うことはあるでしょう。最近は“おじキュン”なんて言葉もあるくらいなので、何をかわいいと思うかは人それぞれ。たとえば豪傑な人の弱い部分をたまたま見たとか、いつもではなく、何かの瞬間に愛しいと思うこともあるのです」
自然と出てきたら大人の表れ。
ここまでさまざまな角度から「愛しい」を深掘りしてきたが、この言葉には、どこか成熟したニュアンスが感じられる。金田一先生曰く、「ある程度、大人にならないと使わない言葉」なのだという。
「『愛しい』は痛々しく感じるほど相手を思う気持ちです。こういう複雑な感情が理解できるようになるのは、年齢的にも精神的にも成長してから。だから、子どもは誰かのことを『愛しい』と思わないんです。相手への好意は『好き』や『かわいい』といった単純な言葉で表します。つまり、『愛しい』が自然と出てきたなら、その意味を実感できるほど大人になっている、といえるでしょう」
それにしても、たったひとつの言葉の中に、これほどの要素が詰まっているなんて! こんなにも豊かに言葉に感情表現を込めるのは、日本語ならでは?
「そこは難しいところで、母国語だからよくわかるわけで、もしかしたら他の国にもあるかもしれません。ただ、日本語には、色でたとえると中間色のような言葉がたくさんあって、そこから日本人の感じ方、考え方みたいなものが見えてくる。『愛しい』は、まさにそんな日本の大事な文化を表す言葉だと思います」
きんだいち・ひでほ 杏林大学外国語学部教授。祖父・金田一京助氏、父・金田一春彦氏に続く、日本語研究の大家。『日本語のへそ』(青春出版社)、『金田一秀穂の心地よい日本語』(KADOKAWA)など著書多数。
※『anan』2021年2月17日号より。イラスト・micca 取材、文・保手濱奈美
(by anan編集部)