志村 昌美

「苦しみの中にある現在の精神科医療にスポットライトを」名匠が見た医療の奇跡

2023.5.8
現在の日本では、生涯を通じて5人に1人がこころの病気にかかるともいわれており、メンタルヘルスへの関心が高まっています。そこでいまこそ観るべき1本としてご紹介するのは、本年度ベルリン国際映画祭で最高賞を受賞した日仏共同製作の傑作ドキュメンタリーです。

『アダマン号に乗って』

【映画、ときどき私】 vol. 576

パリのセーヌ川に浮かぶ⽊造建築の船「アダマン」。ここは精神疾患のある患者を無料で迎え⼊れ、創造的な活動を通じて社会と再びつながりを持てるようサポートしているユニークなデイケアセンターだ。

“均⼀化”や“⾮⼈間化”の波が押し寄せる精神科医療の世界において、共感的なメンタルケアを貫き、誰もが表情豊かになれるこの場所はまさに奇跡のようだった。そして、カメラは⼈々の語らう⾔葉や表情の奥に隠された真実を映し出していくことに…。

今年2月にベルリン国際映画祭で⾦熊賞受賞という快挙を成し遂げたことを受け、日本では急遽時期を繰り上げて公開されている本作。そこで、見どころについてこちらの方にお話をうかがってきました。

ニコラ・フィリベール監督

2002年に発表した『ぼくの好きな先⽣』が世界的大ヒットとなり、いまや“現代ドキュメンタリーの名匠“とも称されるようになったフィリベール監督。今回は、撮影時の忘れられない出来事や患者とのコミュニケーションで意識したこと、そして精神医学を学ぶべき理由などについて、語っていただきました。

―華やかな作品が並ぶなか、決して派手とは言えない本作がベルリン国際映画祭で最高賞に輝いたことに大きな意味があると感じました。ご自身ではどのように受け止めていますか?

監督 これまで映画祭に参加したことはあってもノミネートされたことがなかったので、受賞以前にノミネートされたことがまずはうれしかったです。しかも、金熊賞受賞は予想していなかったので、本当に驚きました。びっくりしすぎて現実とは思えないくらいの衝撃でしたが、自分のことを誇りに思っています。

そして、現在の精神科医療は苦しみのなかにあるので、少しでもそこにスポットライトが当たってくれたらいいなと。この作品が今後の精神医療に与える影響についても、期待しているところです。

―日本ではこういった施設を見たことがない人も多いと思うので、アダマン号はどんなところなのかを教えてください。

監督 アダマン号は係留されているので航行する船ではありませんが、水の上にいる感覚はあるので言うならば“浮かぶ建造物”ですね。施設のなかにはさまざまな場所がありますが、閉ざされた空間はないので、患者たちはどこでも自由に移動が可能。パリの中心でありながら別の場所に来たような錯覚にとらわれるとてもゆったりとした場所です。

もともとはパリの中央にある病院の精神科でチーフをしていた方が船で暮らしている人だったので、こういう場所にデイケアセンターを作ろうと思い立ったとか。精神疾患を抱える方々が過ごす場所は美しいとは限らないので、彼は“美しい場所”を作りたかったんだと思います。

アダマン号では、スタッフと患者に区別はない

―確かに、一般的なデイケアセンターのイメージとはまったく違っていたので驚きました。

監督 通っているのは主にパリに住む患者たちですが、アダマン号に病床はないので、みんな朝か昼にやってきてしばらく滞在したら帰ります。定期的に通っている人もいれば不定期の人もいて、ただ雰囲気に浸ってコーヒーを飲みに来る人もいるので、全体的にとても優しい雰囲気ですね。

―アダマン号に漂う自由で温かい空気感は、映像からもよく伝わってきます。

監督 しかもアダマン号ではスタッフも患者もみんな私服なので、そこには区別も何もありません。患者は「病気」という枠に閉じ込められておらず、ちゃんとした「人」として見られています。個性的で他人とは違うものを持ってはいますが、それを“異常な人”とジャッジされることがないので、ありのままでいられるのです。

そしてスタッフたちは、彼らを孤独から引っ張り出し、世界とつなげる手助けもしてくれます。アダマン号というのは、そういう思想を持った場所なのです。

―素晴らしいですね。ただ、そのいっぽうで精神科医療の厳しい現状に対しては危機感も抱いているとか。

監督 特に財政的な問題や人手不足など、いろんな要因が重なって公的な精神科医療の状況は悪化しています。スタッフたちはやる気を失ってしまうような環境で仕事をしているので、患者の声に耳を傾ける余裕も、ワークショップを開く時間も持てなくなっているほど。本当にたくさんの問題がありますが、それが本作を撮る動機にもなりました。

精神疾患を抱えている人たちへの考え方を変えるべき

―実際に彼らの活動を間近でご覧になって、監督の考えに影響を与えたことはありましたか?

監督 まずは、精神疾患を抱えている人たちに対する、私たち自身の考え方を革命的に変えるところから始めるべきだと感じるようになりました。一般的に我々は彼らのことを“危険な人たち”のように見てしまうことがありますが、ある統計によると精神疾患の患者たちが他人に襲い掛かるような犯罪例は非常に少ないそうです。

といっても、“魔法の杖”があるわけではないので、いきなり変えるのは簡単ではありません。ただ、社会が彼らに対する見方を変えていけば、それが広がっていくのではないかと考えています。

―とはいえ、彼らとどう向き合っていけばいいかわからない人も多いのではないかなと。ただ、本作は患者たちと信頼関係をうまく築いたからこそ撮れた作品だと思うので、そこに何かヒントがあると感じました。監督はどのようなことに気をつけて撮影をされていたのでしょうか。

監督 まさに信頼関係が一番大切なベースになると思っていたので、最初にしたのは、シンプルに説明すること。僕が何を考えているのか、そして「もしカメラを受け入れたくなかったら受け入れなくてもいいよ」と伝え、プレッシャーを与えないように心がけました。

とにかく、僕が彼らをジャッジしたりするような視点でやっているわけではないというのを理解してもらうことが大事だったと思います。あくまでも、その場にある人間関係から一緒に作り出そうとしている気持ちであることをわかってもらえるように意識しました。

サプライズのような出来事は、毎日起こっていた

―なるほど。「もっとも美しいシーンは、不意に意図せずに撮れることが多い」とおっしゃっていますが、今回の撮影でもそのように感じた瞬間はありましたか?

監督 精神科医療の現場にいると、サプライズのような出来事は毎日起こりました。でも、そこで絶対にしてはいけないのは、自分が撮りたいと思っていたものにはめようとしたり、固定観念を持って取り組んだりすること。あくまでも、これから起こることに対してつねに準備万端の状態でいることが重要なのです。

撮影中は予測していたことが起こるなんてことはなく、むしろ予測不可能なことばかり。それでもしっかりと注意さえ払っていれば、湧いてくるように素晴らしい出来事にたくさん出会えるのです。それこそが僕にとっては、監督としての喜びでもあります。

―そのなかでも、印象に残っている場面を挙げるとすれば?

監督 毎週月曜日の朝に、アダマン号で行われている患者とスタッフのミーティングに参加していたときのこと。そこでは新人の自己紹介があったり、プロジェクトの説明があったり、前週の振り返りをしたりしていますが、何度も行くとだんだん誰がよく発言する人で、誰が座っているだけの人なのか、というのがわかってきます。

ところがある日、いままでずっと黙っていた人が突然手をあげて発言したことがあったんです。そこは本編にも使っていますが、ある女性がダンスのワークショップを開きたいといって話し始めました。まさか彼女があんなに長く話をするとはまったく予想していませんでしたが、リアルなサプライズをもたらしてくれましたし、とても素晴らしくて力強いシーンになったと思っています。

精神医学を学ぶことで、自分を認められるようになる

―観客にとっても、非常に印象的な場面のひとつですね。本作は日本との共同製作となりましたが、監督にとって日本はどのような存在ですか?

監督 日本は本当に大好きな国ですよ。特にヨーロッパにとって日本は謎めいた国でもあるので、そこがとても魅力的だなと。近代的であると同時に伝統的な部分も色濃く残っていて、さらに詩的でありながら隠された暴力性みたいなものも共存しているように感じるので、霧のようなイメージです。

―日本でも最近はメンタルヘルスの重要性が叫ばれていますが、精神医学を学ぶことはなぜ大切だとお考えですか?

監督 僕が精神医学に心を動かされる理由は、自分自身と向き合うきっかけを作ってくれるから。人間というのは、誰もが心に影のようなゾーンを持っていますが、それがどういうものかわからずに恐怖や不安を抱いてしまうことがあります。

僕自身も自分のなかにそういう部分があるにもかかわらず、認めたくないと考えていた時期が長らくありました。実際、25年前に精神科クリニックのドキュメンタリーを初めて作ったときでさえ、最初は認めようとはしなかったほどです。でも、精神医学を学んだことによって、いまは自分にもそういう部分があることを簡単に自覚できるようになりました、

―本作を通してご自身が感じたことを日本の観客にも教えてください。

監督 彼らは風変りなところもありますが、一緒にいるとすごくホッとすることがあります。なぜかというと、私たちは「こうあるべきだ」というスタンダードやプレッシャーを感じながら生きていることが多いですが、そんななかでも彼らはファンタジーのような軽やかさを持って生きているからです。

精神疾患の治療を受けている患者のなかには、深刻で苦しみを抱えている人も当然います。でも、この作品に登場する彼らのように頭脳明晰で世界から解放されている人たちと触れ合っているだけで感動を覚えるはずです。いままで見えていなかったものに対しても目を開かせてくれるので、彼らのちょっとずれた視点は僕だけでなくみなさんにもとても刺激的だと思います。

嘘のない言葉の数々が心に響く!

ありのままの姿で生きることの美しさだけでなく、誰もが内に秘めているクリエイティビティを自由に表現することの素晴らしさも感じさせてくれるアダマン号の人々。彼らはさまざまな偏見と闘うことを余儀なくされている精神科医療における“希望”であり、その存在は社会の在り方についても多くの気づきを与えてくれるはずです。


取材、文・志村昌美

優しさが溢れている予告編はこちら!

作品情報

『アダマン号に乗って』
ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開中
配給:ロングライド
https://longride.jp/adaman/
️(C) TS Productions, France 3 Cinéma, Longride – 2022