生活がおもしろくなる? 作家・くどうれいんが“日記を書く楽しさ”を語る

2024.9.26
“日記=毎日書くもの”だと思っていませんか。自由に、空白の日さえも楽しみながら10年以上日記を書き続ける作家のくどうれいんさんに「日記を書くと生活がおもしろくなる」、その理由を聞きました。

日記を“書く”

【6月10日】わたしは本当に、「選べたかもしれないもの」を差し出されるのが嫌いだ。

【7月25日】独身最後の日じゃん、と言われて「たしかに!」と思ったときには既に22時で、だからってどうしようもない。(中略)あした賞味期限の納豆が2パックもあるんだよなあと思いながら、32%の充電のiPhoneを握って眠る。

【11月7日】コンビニの中ですれ違った若いサラリーマンが「まじでうちの会社の自販機ってセンスねえよなあ、そう思わねえ?」と言っていた。

【1月12日】わたしってうるさいな。と思い、落ち込む。

日記 生活

小説やエッセイ、短歌、絵本など幅広い創作で活躍し、それらの原点は「日記」にあると言う作家のくどうれいんさん。先日、Webでの連載をまとめた日記本『日記の練習』を上梓しました。ブログ全盛期の頃、自身も流行りに乗り、書き始めて10年以上。書くと生活はおもしろくなることを覚え、今では日記からヒントを得て作品に昇華することもあるそう。

「日記はブログブームに乗っかって気軽な気持ちで書き始めたのがきっかけです。友達同士しか辿り着けないような、非常に個人的なブログやテキストサイトを読むのも大好きで。バズることなんてまったく気にしていない、日常を脚色することなく誠実に書かれた日記たちに一番影響を受けたかもしれません。この本を出すときに、担当さんから『日記の新しい指南書になれば』と言われたのですが、正直そういうつもりはなくて。日記を書くのは楽しい、ってことは知ってもらいたいけれど、あくまでも私は私のために書いている。それは、私が大好きだったブログ文化の人たちもそうだったからかもしれません」

自分のために書くからこそ、くどうさんは日記を書くうえで、毎日の事実を書き連ねるのではなく「読み返したくなるような日記」であることを大切にしている。

「都合がいいけれど、自分が見返したい思い出だけを記録したいんです。日記で反省したり鬱憤をはらしたり、書いて消化するということも大事な営みだけれど、そういう日記は気づけば見返しもせず捨ててしまいました。せっかく書いて形に残すなら人に聞いてほしいこと、忘れたくないことだけを書き残したい。たとえば6月10日の『わたしは本当に、「選べたかもしれないもの」を差し出されるのが嫌いだ。』と書いた日は、実は納得できないことがあって2000字ほど書き殴ったんです。ちょっと、怒っているくらいの勢いで。でも、この文章は見返したくないなと思って最後の1行だけ残しました。たった1行だけなので、記憶の断片は残るけれど、詳細に残していないおかげで思い出も曖昧になります。言ってしまえば、思い出したくないことは日記に書かないことで“なかったこと”にもできると思うんですよね。馬が合わない上司と過ごした一日の終わりに美味しい鰻を食べたのなら、『鰻を食べて美味しかった』とだけ記したら、その記憶と嬉しそうな私だけが残る。そうやって、読み返したときに楽しい1行だけの方が気持ちがいいんです」

1年間の日記をまとめた『日記の練習』には、書かなかった日が空白で記されている。また、たった1行だけの日もあれば長文の日も。日記とは、毎日欠かさず同じ量を書くものというイメージがあったが、くどうさんの日記を読むと短くても長くても、書く日も書かない日もあっていいのだと思えて、日記に対するハードルが低くなるようだ。

「日記といえどもアナログに記録したことは一度もなく、今はパソコンで書く日もあればスマホにメモする日もあります。書きたくないと思った日は一日もないけれど、毎日欠かさず書こうとも思っていないので、私の日記は余白もある。そうやって、文章量も書くフォーマットも時間もあまりこだわらないことで、気軽に続けてこられたのだと思います。この日記で大切にしたことは、自分の気持ちに素直に、そのとき思った通りに書くこと。頭の中が整理されるので基本は翌朝に前日の日記を書くのですが、まとめて3日分振り返ることもありますし、頭の中がおしゃべりな日は1日で2万字書くことも。そうかと思えば毎日が充実して、日記に向かわないこともあります。あと、何回も同じ言葉が登場することも。『わたしってうるさいな。と思い、落ち込む。』という言い回しは初めて書いたときに気に入ってしまって、それからは同じことを思うと繰り返し使いました。まったく同じ日があることで全然成長しない自分を自覚する、それが嫌いじゃないんです」

一方で、書き方に関しては、日記だからこそ許している決め事があったそうだ。

「まず、うねうねの伸ばし棒(~)です。通常の作品では絶対に使わないのですが、日記やブログの文体ならありだろうと自分に認めて解禁しました。書いてみると頻出して、自分の気持ちを適切に表してくれる表現なんだなあと気がついて。あと、オノマトペもエッセイではやりすぎないように調整するのですが、日記は思うままに書こうとルールを1段階緩くしたり。これは私が作品を書くうえでのポリシーでもありますが、本当の手触りを書くのも大事。真実を曖昧にしても、そのときの手触りだけは嘘をつかず書きたいです」

たくさんの創作活動に携わるくどうさんだが、書く媒体によってすこし自分も変わるような感覚があるのだという。なりたい自分に変身するように、“日記用のわたし”を見つけられると書きやすくなると話してくれた。

「日記って、必ずしもプライベートをさらけ出す場所ではなくて、あまり自分自身であることは大事じゃないと思います。誰しも“日記用のわたし”があるはずで、普段よりも真面目だったりユーモラスだったり、自分が好きな自分で書いていい。私の場合はちょっと茶目っ気が出る気がしていて、そういう私を私は気に入っているし、そういう私でいられる日記を書く時間が好きです。それに、エッセイだとある程度背景を理解してもらうために文章量が必要だけれど、日記は書きっぱなしでも許される。だから脈絡もない短文が書けて、『わたしはエンターがデカくないとだめなんだ』みたいなとある日の1行には、私っぽさが出てるなと思います。でも、短くてカッコいい文章を書くには、その裏にある何十行もの言葉のうち何を消すのかという作業がとても大事。キャッチコピーではないので、“いいことを言ってやろう”みたいな欲が出ると何も響かない文章になりやすいんです。無欲な短文の方が好きですし、そういう書き方は日記にも通じるかもしれません。短い言葉ほどパワーがあって、記憶を思い出すためのドアノブになってくれる気がします」

誠実な言葉のラインをチューニングしながら、好きなときに好きなように書く。そうやって日々を記録することで、日常に新しい発見が生まれたり自分の記憶に励まされたりすることを、くどうさんの日記から感じられる。一冊にまとまった日記を読み返して、改めて日記のおもしろさをどのように感じたのだろうか。

「私はSNSに投稿するよりも日記を書こうと決めていて、それは日記だと文章がキリッとして、言葉と向き合う姿勢も変わる気がするから。なので、タイトルの通り、私自身改めて文章の手癖や起伏のパターンなどを練習しながら見つけることができて、学びになりました。あとは、いっぱい書いたことで、逆に書かなくていいことがわかるようになって、より日記が書きやすくなりました。“読む”ことでいえば、ブログサイト以外では、エッセイストの古賀及子(ちかこ)さんの本が大好きで、やっぱり日記を書くことは多感なことなんだと彼女の本から感じます。自分や子どもへの眼差しに、常に好奇心があるけれど、大きく見せようというスタンスがまったく感じられず、心から興味があることしか書かない。彼女の日記も無欲だなと感じます。そんな誠実さがとても好きで、私もそういうことを大切に日記を書き続けたい。しばらくは、こっそりと自分のために日記を書く日々が続きそうです」

日記の練習

『日記の練習』 日々を記録した「日記の練習」と、その1か月間を振り返ってエッセイにまとめた「日記の本番」による、くどうさんの1年間の日記。「作家としての暮らしに慣れるまでのこの1年間しか書けない日記でした」。NHK出版 1870円

作家 くどうれいん

くどうれいんさん 1994年、岩手県生まれ。作家。小説「氷柱の声」で第165回芥川賞候補に。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』『桃を煮るひと』『コーヒーにミルクを入れるような愛』、第一歌集『水中で口笛』などがある。

※『anan』2024年10月2日号より。写真・小笠原真紀(くどうさん) 中島慶子(本) 取材、文・羽佐田瑶子

(by anan編集部)