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”女性” と ”男性” の区別で悩んだ僕。トランスジェンダー男性の葛藤|多様な性、LGBTの世界 #4

2017.5.20
“トランスジェンダー” という言葉をご存知でしょうか。生まれた体の性と自認している性が異なる、いわゆる性同一性障害と呼ばれる方々もトランスジェンダーに含まれています。司法書士事務所を経営するかたわら、認定NPO法人グッド・エイジング・エールズにてEVENTチーム、CAFEチームをメインに活動しているKIRAさん。彼も、トランスジェンダー当事者のひとりです。学生時代から今に至るまでの葛藤をお話しいただきました。

体は女の子、心は男の子。違和感を覚えた小中学生・高校生時代

【多様な性、LGBTの世界】vol. 4

それは小学生の入学式。親がスカートを履かせようとしたけれど、僕は必死でそれを拒んだそうです。僕自身にはその記憶はありませんが、幼い頃から自分が生まれた性に違和感を持っていた証だと思います。自身の性自認についての違和感は、小学校のとき出席番号が男女分けになっていることなどから少しずつ感じていましたが、特に嫌悪感を抱いたのは、制服がある中学校に入ってからでした。スカートをはくのがたまらなく嫌だったのを、今でもハッキリと覚えています。

しかし、性同一性障害という言葉も知らず、トランスジェンダーという言葉もあまり知られていなかった当時、その違和感が何なのかわかりませんでしたし、調べる術も持っていませんでした。思春期になると、恋愛感情を抱く方が多いと思いますが、僕が好きになるのはなぜか女性でした。女性が女性を好きになる。レズビアンという言葉は知っていましたので、僕は自分のことをずっとレズビアンだと思っていました。

地方在住であり、セクシュアル・マイノリティ当事者は周囲にいないと思い込んでいた中学時代は、部活一色だったこともあり、深く悩むことはあまりありませんでしたが、好きな人の話題が出るときなどは困ったのを覚えています。セクシュアル・マイノリティには偏見が強いイメージがあったので、自ら「女の子が好き」とは言いませんでしたが、周囲からは気づかれているようでした。

地方のコミュニティは狭い–。そんな思いから、大学は東京にあるところに進学することに決めたのです。

しっくり来たトランスジェンダーという言葉と、大学生時代の思い

東京に住むようになってからは間もなく、新宿2丁目に行ってみました。自分のことをレズビアンだと思っていた僕は、レズビアンの人と話をしてみたかったのです。でも、話してみたら何かが違う–。あるとき、"オナベ"といわれている人と話して初めて、僕はレズビアンではなくトランスジェンダーなのだと気付きました("オナベ"という呼称は現在差別的に使用されることがあるので、使うのは避けた方が良いでしょう)。それがわかったとき、僕の心はとてもしっくりときたのです。体は女性に生まれてきたけれど、心が男性なんだ。これが、僕のセクシュアリティなのだと、やっと認識したのです(体が女性で心が男性である方のことをFemale to Male(FTM)といい、逆に、体が男性で心が女性である方のことはMale to Female(MTF)といいます)。

一方、大学生活では嫌な思いをすることもありました。大学の出席名簿には、”F(女性)”、”M(男性)” が書かれており、教授から名前を呼ばれ返事をしたとき、「君は誰だ」と言われてしまったのです。名簿には“F”と書かれているのに、返事をしたのは男性に見える。教授は違和感を覚えたのでしょう。みんなの前で、何度も聞き返されました。僕は教授たちに名簿の性別の記載を訂正するよう掛け合ってみましたが、うまくいきませんでした。大学の学生課に言うと、医師の診断を受け、裁判で名前を変えたら変更できるかも、と言われました。そこで、通院することにしたのです。名前を呼ばれる度にみんなの前でさらされている思いをすることが苦痛だったのもあり、3年生までは大学に行くことがほとんどありませんでした。

僕が選んだ、長い長い僕の道。それでもこれからの道のりは長い

そのため、大学4年生のときは単位を取るのに必死でしたが、留年しないで卒業しなければ、という思いとは裏腹に、このまま社会に出るのは ”良くない”、と思っていた僕も同時にいました。多くの方が4年生で就職活動をするかと思いますが、僕は面接のときなどで自分のことを面接官に説明できないと思ったのです。

ただ、いつまでも社会に出ないわけにはいかない–。司法書士をしている先輩に会う機会があったのでその方からお話を聞き、「司法書士になる」と決めました。大学卒業後、約1年間予備校に通い、試験を受け、すぐ今の師匠の下に弟子入りしたわけです。

一方、"性同一性障害"の"治療"の方はというと、当時はきちんとガイドラインにのっとってやらなければならなかったので、とても面倒だったのを覚えています。「昔の自分はどうだったか」「どういう思いをしたか」「どうして名前を変えたいのか」そういったことを、”自分史” として作文にして提出しなければなりませんし、病院は遠い。自分と向き合うことをひたすら避けてきた僕にとって、この作業は苦痛以外のなにものでもありませんでした。

診療にはいくつかのステップがありますが、診断が下りると名前変更のチャンスを手にすることができました。変えようかどうかは相当悩みましたが、最終的には名前を変更しない道を選びました。二十歳の頃から男性ホルモンの注射を打っていましたので、外見も男性らしく変化し、手術で乳腺も取っていたため、概ね男性として生活できていると感じたからです。また、親が産んでくれた体を男性らしくなるよう変えてしまったので、せめて名前は残そうと思ったこと、これも名前を変えなかった大きな理由のひとつです。

そんなわけで名前は変えなかった僕ですが、選挙に行ったとき、受付で嫌な思いをしてしまいました。戸籍上女性であるため、見た目の性と違い、騒ぎになってしまったのです。これでは選挙にも行けないのか–。病院でも同様のことはよくあったため、僕はついに戸籍を変えることを決意しました。戸籍を変えるには、卵巣を摘出するなどの手術を受けなければなりませんが、その手術をし、裁判所で審判を受け、戸籍を女性から男性へと"変更"したのです。

両親には二十歳の頃トランスジェンダーであることを伝えましたが、親の認識としては「ボーイッシュな子ども」。「まさか、うちの子が」といった反応でした。今では受け入れられていますが、今に至るまでは10年ほど時間がかかったのも事実です。

また、恋愛面では、戸籍の性別を変えたので女性と結婚することはできますが、相手の親にカミングアウトするか、という問題や、子どもをどうするかなど、変更前には特に気にならなかった非常に悩ましい問題もでてきました。変更前は、「実は男性なんだ」、変更後は、「実は女性だったんだ」。いつまで経っても、カミングアウトの問題からは逃れられないことにも、改めて気づかされたのです。僕自身もそうですが、トランスジェンダー当事者のなかには、元の性別を言いたくないという人も数多くいますし、結婚などはまだ当事者にとっても高いハードルなのかもしれません。

現在は認定NPO法人グッド・エイジング・エールズのなかで活動をしていますが、最初に参加したときは大きな衝撃を受けました。レズビアンはレズビアン同士で、ゲイはゲイ同士で仲良くなるイメージが強くありましたが、ここでは違ったからです。さまざまなLGBT当事者、そして当事者でない方も、一社会人として仲良くしている。とてもステキな空間だな、と感じました。僕も、この活動を続けていき、根強い偏見をなくしていきたいと考えています。垣根のない社会を作る一助になりたいです。

〜LGBTのバトン〜

今回は、KIRAさんにお話をうかがいました。
次のお話は、バイセクシュアルの橋本美穂さん。
現在43歳の建築家で、バイセクシュアルだと自認したのは35歳の頃だそう。
認定NPO法人グッド・エイジング・エールズの副代表として活動しています。

Information

認定NPO法人グッド・エイジング・エールズ

http://goodagingyells.net/