「障害者だと認識しろ」。心ないひと言をぶつけられたとき

文・七海 — 2017.3.6
アスペルガー症候群である私は、障害者と呼ばれることがあります。いわゆる発達障害は、この世界ではマイノリティです。マイノリティの声を届けようと思ったら、多角的な視点が求められるもの。そんなときに、心ない言葉を吐き捨てられました-。

マイノリティが生きづらい世界。マジョリティはマジョリティであるだけで良いの?

発達障害を持たない、いわゆる ”定型発達” の人は、この世界ではマジョリティです。マジョリティはマジョリティであるだけで、声が大きくなることがあります。マイノリティの声は、マジョリティに届きにくいのです。

それでも、マイノリティはマイノリティとして生きています。発達障害は、生まれつきの脳の特性です。”治す” という概念のものではありません。マジョリティになりたくてもなれないのが現実。だからこそ、マジョリティに伝えたいことはたくさんあるのです。声が届きにくいのは承知のうえ。それでも、生きていかなければならないし、生きたいから−。だから、私はこうして発信を続けるのです。

マイノリティだから気づけたことかもしれませんが、マジョリティはマジョリティであるだけではいけないと思うんです。さまざまな人が共存するためには、マジョリティがマイノリティに対して理解することが大切だ、と。生きづらさを感じるマイノリティがマジョリティと共存して生きやすくするためには−。きっと、多角的な方向から発信を続けることが大切だと思います。マジョリティといってもその思考はさまざま。いろんなマジョリティに声を届けたいと思っています。

発信を続けていて感じるマジョリティの心なさ。発信は、常に痛みとともに

マイノリティの声をマジョリティに届けたいと思い、私は発信を続けています。届く人には届く。少しでも偏見をなくせたら−。そんな思いです。しかし、意見は決して肯定的なものばかりではありません。

発達障害者を差別するような発言をしている人をよく見かけます。そういった人たちは、自分が ”定型発達” に生まれたことに対して優越感を持っているように感じるのです。人は誰かを見下さなければ生きていけない−。そんな、人間の悲しい性を垣間見ることがあります。しかし、そういった人がいざ結婚したとき、新しい親族に発達障害者がいたら? 生まれてきた子どもが発達障害を持っていたら? 恐らく、態度は一変するのではないかと思います。自分がマジョリティに属していて、マジョリティ世界しか知らないから言える言葉があると思います。でも、そういった言葉を言えない状況下になったら−。彼らはどうするのでしょうか。

こういった想像こそ、マジョリティがマイノリティを理解するための第一歩だと思っています。自分の愛する人がマイノリティだったとき、あなたは同じ言葉を言うことができますか? そういった想像力を働かせてほしいのです。

私は常にそういった思いで発信を続けてきました。そんなとき、投げかけられた言葉があります。

「”たられば” じゃなくて、自分が障害者であることを認識しろ」

この言葉は、私の発信を全て無にするものだと感じました。マジョリティは想像することでしか、マイノリティの生きづらさがわからない。それを、こんなひと言で一蹴されたら−。私は言葉を失いました。マジョリティに声が届きにくいがゆえんだと感じました。

マイノリティがマジョリティと共存したいというのは叶わぬ願いですか?

共存−。私が願う世界です。発達障害を個性だと認めてくれる人もいますが、心ない人がいるのも事実。マイノリティの声は、マジョリティに、永遠に届かないのでしょうか。多角的な視点から訴えるのは、”障害者らしからぬ” 行動なのでしょうか。

私にとっても、マジョリティ世界は想像でしかないです。しかし、共存したいからこそ、想像しているのです。その想像は、一方通行ではダメなのではないかと考えています。マジョリティにもマイノリティの世界を想像してほしい。そのとき初めて、共存への第一歩を踏み出せると思うんです。私は確かに痛みを感じました。「障害者であることを認識しろ」。認識しているからこそ、訴えたいのです。私の声は、あなたには届かないのでしょうか。マイノリティが願う共存は、絵に描いた餅なのでしょうか。多様な人間がいるからこそ、認め合える世界になってほしい−。叶わないのかもしれないけれど、私の切なる願いです。


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