スラム街出身だけど…インド階級差別社会に立ち向かう青年の生きざま

写真・角戸菜摘 文・尹 秀姫 — 2019.10.17
スラム街で生まれ育ち、未来に夢を見ることすら許されなかった青年がラップに出会い、人生を変えていく--そんな希望に満ちた映画『ガリーボーイ』は、持って生まれたラップの才能ひとつで社会に立ち向かっていく青年ムラドの成長と生きざまを描いた映画。『ガリーボーイ』の日本公開に先立ち、日本を訪れたゾーヤー・アクタル監督と、脚本を手掛けたリーマー・カーグティーさんに話をうかがいました。
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『ガリーボーイ』

主演のランヴィール・シンはこれまでにも数々の映画で主役を演じてきたスーパースターであり、また実在するラッパー・Naezyの実話をもとにしたストーリーということもあり、インドで大ヒットを記録しました。

この映画の背景にあるのは、インドが抱える社会システム上の問題。階級による差別をはじめ、出自によってその後の人生が決められてしまうという社会そのものへの批判が込められていると、監督は語ります。

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左から、脚本のリーマー・カーグティーさん、監督のゾーヤー・アクタルさん。 

--映画『ガリーボーイ』は日本公開前からすでにかなり注目を集めています。これほどの人気は予想できましたか?

ゾーヤー もちろん、予想していなかったことです。その話を聞いて、とてもうれしいです。

--この映画は主人公ムラドが自身のラップの才能に目覚め、父の反対を押し切って、ラッパーとして飛び立つ成長物語だと感じました。監督がこの作品で特に描きたかったものは何ですか?

ゾーヤー いわゆる“クラス・システム”、階級社会について描きたいという思いがありました。インドにはこの階級制度があるがゆえに、私が当然と思って享受しているものにアクセスできない人たちがたくさんいます。インドはある意味、国内で植民地化が行われている、それも特にメンタル面での植民地化がなされていると思うのです。

そういう人たちには、夢を見る権利すらもない。日々を生きるだけで精一杯、そういう状況に追いやられている人たちがたくさんいます。同じ国の人間なのに、そういう扱いを受けている人たちがいる、そういう階級の人がいる、ということを描きたいと思いました。

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ゾーヤー・アクタル監督

--ムラドの父が、息子の夢を応援するのではなく、「目を覚ませ」と諭すのもそういうことですよね。

ゾーヤー まさにそうですよね。ムラドの父は弱い人間なんです。彼もかつて心を挫かれたことがあったのでしょうし、また人生に怖れを持っています。彼は機会を与えられることのなかった人間ですが、一生懸命働いて、息子を大学にまでやることができた。

ムラドも一瞬、ホワイトカラーの仕事を得たじゃないですか。それを捨ててまで、不確かでリスクの高い世界に飛び込むというのは、父親にとっては理解ができないし、恐怖ですらあるわけですよね。そして父親があれほど家庭で暴君のように振る舞っていたのも、外では抑圧されているから。彼が威張れるのは、家の中だけなんです。

--サフィナも裕福な家庭の娘ではありますが、女性ということで行動を制約されてしまいます。

ゾーヤー サフィナはいい家柄の出身で、未来もある少女ですが、ある一定の時期が来ると、彼女を取り巻くルールががらりと変わってしまうんですよね。女性であるがゆえに、親の言うことに従わなくてはいけないし、してはいけない行動が増えてくる。どんどん縛り付けられていくんです。映画の中ではムラドもサフィナも、それぞれ取り巻く状況と戦っています。

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−−監督の想いを描くのに、ヒップホップという題材はぴったりだと思いました。

ゾーヤー 今回、2人のラッパーNaezy(ネイズィー)とDevine(ディヴァイン)に出会えたことには、とても大きなインスピレーションを受けました。2人とも貧困の中を生きてきた青年ですが、いわゆる“ガラスの天井”と言われるものを、この2人はヒップホップで割ることができたと思います。

この映画を作るにあたって私たちはラッパーをリサーチしたんですが、とても楽しい作業でした。映画自体はこの2人の自伝ではないし、フィクションとして観ていただきたいんですけど、彼らの人生に非常に大きく影響を受けて作られた作品です。

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--『ガリーボーイ』でムラドがガリー(路地裏)から羽ばたいていったことが、この2人にとってはまさに現実に起きたことであり、その2人の生き方のエッセンスがこの映画に込められているということですよね。

ゾーヤー そうですね。

リーマー そしてこの2人の成功は、インターネットなくしては起こり得なかったことでもあります。この2人はインドを出たことが一度もなかったんですよ。そんな彼らが、なぜラップを知っているかというと、インターネットのおかげですよね。そして彼らの作品が広がっていったのもまたインターネットを介してでした。ラップとインターネットはとても民主主義的なツールだと思います。

--それは映画の中でも反映されていましたよね。映画ではさまざまな場面が印象的に散りばめられていますが、お2人がもっとも大切にしている場面はありますか?

ゾーヤー 私は、父親の代わりに運転手になったムラドが、涙を流す令嬢を車に乗せたまま、何も言えないでいるシーンですね。2人が話をしてはいけないという距離感があって、とても印象的なシーンです。そして映画の最後で、サフィナとムラドがバスルームで仲直りするシーンもお気に入りです。

リーマー 私が書いた脚本よりも、映画になったらとてもよくなったシーンが多くて、ひとつに絞るのは難しいのですね(笑)。いくつか挙げるなら、ムラドがスカイの家に行って、豪華なバスルームに戸惑うシーン。見たこともないような大きなバスルームに、きれいなタオルがかかっていて、その1つひとつに戸惑う場面がムラドの素朴さを表しています。

そして、サフィナという存在そのものがお気に入りでもあります。インド映画ではかなり珍しい女性の描かれ方をしていますよね。ムラドがラップ・バトルでオープニング・アクトの権利を勝ち取って、かつて自分が暮らしていた家に戻るシーンも好きです。

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−−ムラドに一途なあまりエキセントリックな行動を取るサフィナ、そしてムラドにラップを教え、最後は彼を笑顔で送り出すMCシェールというキャラクターも魅力的でした。

ゾーヤー シェールはムラドの才能をいち早く認めた人です。ラッパー同士が足の引っ張り合いをするのではなく、ヒップホップの世界にとっていいことは何かというのを、俯瞰で見ているキャラクターなんですね。個人同士を競うよりも、ヒップホップそのものを高みに持っていきたいと願っている人物です。そして、サフィナはまさにおっしゃるとおりエキセントリックな女の子ですが、それはフラストレーションを抱えているからでもあるのです。

もともと責任感が強く、しっかりした子であるからこそ、自分の人生の選択肢が狭められた状況に怒りを覚えているのです。それに、私はサフィナを単なるムラドの彼女、という枠におさめたくなかったんです。この映画のメインストーリーはムラドの成長物語ではありますが、その主人公におまけでくっついているような女の子として描きたくなかった。

彼女は裕福な家庭で育ってはいるものの、いろいろな足枷があって、彼女もまたそれと戦っている。単なる添え物としてのキャラクターではなく、しっかりとした人物として描きたかったんです。

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--映画のもとになった、ラッパーのNaezyとDevineとはどのように出会ったんですか?

ゾーヤー Naezyが21歳の時にiPadで撮ったという映像をたまたま見つけて、しばらくその曲と映像が頭から離れないくらい、虜になりました。そこから何としても彼に会いたいと思って、手を尽くしてコンタクトを取りました。映画のストーリーのヒントになるんじゃないかと思って、まずは軽く挨拶というつもりが、気づけば3時間くらい話し込んでいましたね(笑)。

リーマー 初めて彼に会う時、私たちが会いたがってるというのは伏せてもらったんですよ。なので、実際に会った時はとても驚いて、恥ずかしがっていました。幸い、話をするうちに打ち解けてくれて、彼のライブに呼んでもらったんです。そこでオープニングアクトを務めていたのがDivineでした。その彼ともバックステージで話を聞くことができました。映画を作りたいと言った時は、2人とも、ヒップホップがより多くのオーディエンスに届くことになるのを喜んでいましたね。

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−−主演のランヴィール・シンは今作で今までにないキャラクターを演じていますが、撮影時はどうでしたか?

ゾーヤー 彼とは2回目の撮影だったので、安心感がありましたね。実は彼はカミングアウトしていなかったけど、ラップが好きだったんですよ。趣味でラップをやっていたのを、私は知っていたんです。彼とは何年も前からの知り合いで、人柄もよくわかっていますし、ボンベイ出身なのでスラングにも精通しています。今回のムラドという役はほとんど彼にあて書きしたものなんですよ。

--『ガリーボーイ』に描かれているように、インドには今もまだ生まれによる差別が現実としてありますが、映画によって世界は変わりうると、監督は信じていますか?

ゾーヤー はい、そう信じています。もちろん、一夜にして世界を変えるというのは不可能かもしれませんが、映画を発表するということは、自身の考えを世に出すということ。映画によって人の意識に働きかける、または人の行動に働きかけるということはできると、私は思います。

ムラドが運転手として働いていた時、雇い主の娘が車の後ろで泣いているシーンがありましたよね。あの2人は同じ車の中にいても隔たりのある存在でした。あれはインドの社会そのものです。しかしその後、サフィナがムラドに向かって「あなたは好きな道に進んでいい、私があなたを支えるから」と言う場面がありますが、女性が男性を支えたっていいということを、私はあの場面で描きたかったのです。

そういうことを、説教じみたお話として説くのではなく、映画として描くことで、何らかの変化が少しずつでもあればいいな、と私は思います。

Information

http://gullyboy.jp/

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