【四択問題】歴史上、最も強い「怨念」を発したと言われるのは誰?

監修・東進ゼミナール学長・飯田陸三 — 2019.1.28
「社会人になってから、学生時代に学んだことを勉強し直したくなった」という声を多く聞きます。そんな学習欲が高まっているあなた、今日は東進ゼミナール学長・飯田陸三さんと一緒に“日本の歴史”を楽しく学びましょう。

【問題】

歴史上、最も強い「怨念」を発したと言われるのは誰?
(1)菅原道真
(2)平将門
(3)崇徳天皇
(4)後鳥羽上皇

【回答&解説】

それぞれの人物の怨念エピソード

<菅原道真>
菅原道真は、幼少期より勉強熱心で頭が良く、学問の神様として太宰府天満宮に祀られていること、遣唐使の廃止を朝廷に進言、実現したことが有名です。
政治家としても優秀だった道真に嫉妬をした藤原時平が、醍醐天皇に嘘の証言をし、それを信じた醍醐天皇によって道真は太宰府に流され、59歳の若さで亡くなります。その後、道真を追い落とした藤原氏の男たちが、次々に急死、変死をとげ、その子どもたちまでもが次々と死んでいきました。道真を貶めた時平自身も道真の祟りを恐れながら狂い死にます。災いは皇室まで及び、醍醐天皇の皇太子の突然死に加え、政(まつりごと)を行う清涼殿に雷が落ち、その雷がかつて道真の監視役をしていた男に直撃、死を招いたのです。この事件で難を逃れた醍醐天皇自身も、そのショックで3か月後に亡くなりました。
その怨念を鎮めるために北野天満宮を造ったことで、道真の祟りは収まったといわれています。

<平将門>
桓武天皇の血を引く平将門は、当時の関東で乱(平将門の乱)を起こし、自ら親王と名乗り朝廷に反逆しました。しかし、のちに朝廷が差し向けた大軍によって打ち取られてしまいます。その後、将門の首は京都でさらしものになっていましたが、ある日突然飛び上がり胴体を求めて関東方面に飛び去ったといわれています。
その首塚は現在の東京都千代田区大手町にありますが、関東大震災で全焼した大蔵省の仮庁舎を建設したときに、その首塚を取り壊してしまったのです。その後、大蔵大臣はじめ関係者14名が亡くなったため、大蔵省は呪いを恐れ、仮庁舎を壊し首塚を再建しました。加えて、終戦後GHQが首塚を壊し駐車場を造る計画を進めていたところ、その工事中にブルドーザーがバランスを崩し、2名が落下し命を落としたそうで、これも将門の呪いとして噂されています。

<崇徳天皇>
崇徳天皇は第75代天皇として、わずか5歳の年齢で天皇に即位しました。のちに政権争いに敗れ、罪人として讃岐に流されてしまいます。その後、崇徳天皇は権力を求める欲を捨て仏教を心の拠り所とし、法華経や般若経などの写本を作成。その写本を都に送りました。朝廷は、祟りが込められているとして写本を崇徳天皇に送り返しますが、その際、崇徳天皇は怒り自ら舌を噛み、その血で経典に「われ日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書き海の底に沈めます。
崇徳天皇の死後、彼を苦しめた関係者・近親者が相次いで死亡しました。また、数年後に武家出身の平清盛が天皇に代わり政治の実権を握り、武士の政権は江戸時代まで続きました。崇徳天皇が経典に血で記した通りになったいわれており、天皇家を呪う怨霊として恐れられました。

<後鳥羽上皇>
後鳥羽上皇は、第82代天皇としてわずか4歳で天皇に即位。鎌倉幕府(源氏)から政権を奪い返そうと1221年に承久の乱を起こしたものの、大敗し隠岐の島に流されてしまいます。そして亡くなるまでの20年を隠岐で過ごすこととなります。
後鳥羽上皇が世を去った後に、源氏の執権北条時房や四条天皇が次々と亡くなり、これは後鳥羽上皇の怨霊のせいだといわれています。

正解は(3)崇徳天皇

怨霊として恐れらた期間の長さ、そして怨念の規模から、【崇徳天皇】が“歴史上最も強い怨念を発した人物”といえるでしょう。他人を死に至らしめるだけでなく、政権までも変えてしまった崇徳天皇、非常に恐ろしいですね。
崇徳天皇が血文字にて経典に宣言したことが現実化し、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と700年もの間、政治は武士によって牛耳られます。
朝廷が実権を取り戻した明治時代、明治天皇は讃岐に勅使を送り崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ白峰神社を創建し祀りました。さらに昭和天皇は、崇徳天皇の死後800年目にあたる昭和39年に香川県の崇徳天皇陵に勅使を送り、式年祭を執り行っています。

【おまけ】

菅原道真が学問の神様と言われる理由

怨霊を発する人物として特に意外なのは、学問の神様菅原道真なのではないでしょうか?

菅原道真は845年に代々続く学者の家系に生まれ、18歳で当時もっとも難しいと言われていた試験に合格。勉強熱心で33歳には文章(もんじょう)博士(漢文学・中国史の大学教授のような地位)となり学者として活躍する一方、政治家としても天皇に重用されていました。このように学者の家系に生まれたこと、道真自身が非常に優秀な学者であったことから、江戸時代頃から学問の神様として信仰されるようになったのです。

道真は遣唐使を廃止しました。当時、唐では内乱、汚職、賄賂などが横行し、もはや唐から学ぶものがほとんどなくなっていたにも関わらず、朝廷は遣唐使を派遣しつづけていました。
道真は、優秀かつ学ぶことに意欲的な未来ある若者がこの意味のない慣習により、命を落としたり(当時の船では日本海の荒波をこえることはリスクが大きかったのです)、考えが歪められることはデメリットと考え遣唐使を廃止しました。これにより、優秀な若者が守られたのと同時に、日本独自の貴族文化(国風文化)を発展させることができました。この功績が、現在に残る日本の文化の確立に大きな影響を及ぼしていると言われています。


【協力】
東進ゼミナール
株式会社東進が37年間運営する老舗塾。生徒数約3,500人。昨今ではロンドンブーツ1号2号田村淳氏の青学受験をサポートしたことでも話題。
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