生きづらさを作っているのは誰…? 発達障害の私が思う「差別の根源」

文・七海 — 2018.6.6
マジョリティとマイノリティ。この単語だけを見ると、マジョリティが生きやすくて、マイノリティが一方的に生きにくい社会であるように感じるほうが多いような気がします。だけど、アスペルガー症候群という発達障害があり、マイノリティである私は、本当にそうなのだろうかと感じることがあるのです。生きづらさを作っているのは、本当は誰なのでしょうか……。

私がマイノリティにカテゴライズされたときの、正直な気持ち

小さい頃からさまざまな違和感を覚えていました。コミュニケーションがうまく取れない自分を必要以上に責めたこともありますし、今でも責めていると思います。学生時代は友だちを作ることができませんでした。友だちという存在への羨望は、人一倍強いのではないかと思います。集団生活が主である学生時代は苦痛で仕方なく、大抵孤立していました。昼休憩はひとりでご飯を食べながら、わいわいと賑わうクラスメイトたちを眺めていました。羨ましいな、寂しいな、と思いながら。

いじめに遭ってから身体の異変を感じました。朝が辛く、夜は眠れません。鬱病の予兆でした。それから鍵やガス栓を何度も確認するなど強迫性観念の症状が出て、日常生活まで支障が出てきました。些細なことも確認しなければ気が済みませんでした。社会人になってから精神科受診を勧められ、鬱病だと診断されました。薬物療法が始まりましたが、結局は躁鬱病で、他の精神疾患も多く併発していたことが発覚。さらに、アスペルガー症候群であることがわかったのです。

診断された時期は、ちょうど「大人の発達障害」という言葉がよく使われ始めたときでした。発達障害については深く知らなかったものの、大変なんだろうなという認識。偏見を持っているつもりは全くありませんでした。しかし、実際に自分が診断されたときは、ショックを受けたのを覚えています。そしてショックを受けている自分に対しても、ショックを受けました。私は知らず知らずのうちに偏見を抱いていたのだ、と。

それと同時に安心感も覚えました。相反する気持ちが混在して複雑でしたが、自身が発達障害当事者であることを受け入れられたのは、結局この安心感があったからだと思うのです。私が違和感を抱きながら生きてきたのも、集団生活になじめなかったのも、生きづらさを感じていたのも、発達障害だからだったんだ、と。

発達障害と言われて安心したのはなぜ?

偏見がなくなったかどうかは別にして、発達障害という言葉自体はかなり浸透してきたと思います。発達障害と聞くと、例えぼんやりとであっても、何かしらのイメージが浮かぶかたも多いのではないでしょうか。そこに負のイメージが付随するかどうかは、ここでは置いておきます。

例えばの話ですが、何かしらの生きづらさを自分が感じていることを思い浮かべてみてください。何不自由なく人間関係を築けている人は、実際にはそう多くないと思うのです。人間関係は複雑だからこそ、悩みを抱えるのだと思います。今あなたが思い浮かべた生きづらさや悩みを、医師に相談したとしましょう。そこであなたに病名が付いたとしたら、どう感じるでしょうか。恐らくですが、「私はこの病気だったから、今まで悩んでいたんだ」と安心する部分があるのではないかと思うのです。あのときの私と同じように。

科学も医学も日々進歩します。新たな病名がつくものも、これから出てくるのではないかと思います。科学的・医学的論拠に基づいた病名が自分に付くと、そこで自分をカテゴライズすることができます。言い方は乱暴ですが、”病気のせい” にすることも可能なのです。私があのとき安心感を覚えたのは、それまでの生きづらさを発達障害であるせいにしたからだと思います。もちろん、そういったカテゴライズをすることで、これからの生活に何かしらの対策ができるのであれば、人生において非常に大切なことだと思います。しかし、安心感を抱くだけでは、何も変わらないのではないかと考えています。これは、自戒の念を込めて書いていることです。

恐らくなのですが、自分は発達障害かもしれないという不安を抱く人が一定数いるのも、ある意味安心感を求めているように感じます。発達障害でなくても同様です。何かにカテゴライズされると、安心感を抱く傾向にあるのではないかと考えているのです。

迫害する側、カテゴライズされる側。
だれも責めないやり方はないの?

私自身が発達障害当事者なので、発達障害を例にします。単語自体は浸透しているとはいえ、まだまだ風当たりは強いと実感しています。現実の生活でカミングアウトするタイミングはあまりありませんが、匿名のインターネットを見てみると、発達障害に対してかなり酷いことを書かれていることもあります。発達障害当事者を軽蔑している前提の文章を見かけることもあります。そういった人たちが、現実の生活で当人に面と向かって侮辱の言葉を吐いていなかったとしても、心の中ではそう思っている人が一定数いるのではと感じるのです。こうした現状を見ると、マイノリティが一方的に迫害されて、生きづらい社会になっているように見えます。

しかし、私は思うのです。声が大きくなり、他を排除しようとしてしまうのは、安心感があるからではないかと。マジョリティはマジョリティであることに安心感を覚えます。自分が多くの人と違っていないという感覚が、自分が異質ではないという感覚につながるのではないでしょうか。だからといって、マイノリティを迫害して良い理由にはなりません。

いっぽうマイノリティは、確かに生きづらさを感じる面が多々あるかと思います。だけど、例えば発達障害だとカテゴライズされたときに、その人が安心感を覚えるとしましょう。同じところにカテゴライズされた人々のなかには、権利を主張する人もいます。権利は誰しもが持つべきものなので、不当に迫害を受けている人がそういったムーブメントを起こすことは重要です。しかし、それを踏まえたうえでも、行きすぎた運動があるのではないかと感じます。当事者にしかわからない辛さを訴え、理解を深めるのは大切なこと。理解を深めて、生きやすい社会を作るのも大切なこと。

私が疑問を持っているのは、排他的なムーブメントに対してです。マイノリティが声を上げるのは大切なのですが、他のマイノリティを迫害するような言動や、マジョリティを軽蔑したり過度に攻撃的になったりしている言動は、良くないのではないかと思うのです。こうした過激な動きは、むしろ生きづらい社会にしている原因になり得るのではないでしょうか。異なるカテゴリーのマイノリティ同士も理解し合えず、もともと理解のない言動をするマジョリティに対しても、響く運動だとはとても言えないと思うのです。マイノリティがこういった他を排除しようとする運動をする理由のひとつに、安心感あるのではないかと考えています。

マジョリティであれマイノリティであれ、他を迫害する言動は良くないと思います。マジョリティである安心感も、カテゴライズされたことによる安心感も、自分自身を守るための生きやすさではあると思います。ただし、その生きやすさを、生きづらい社会にするための要素にしてはならないというのが、私の考えです。安心感は、一歩間違えると攻撃の源になってしまいます。マジョリティもマイノリティも、誰しもが生きやすい社会を作ろうと思うことが、本当に大切なことなのではないでしょうか。



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