冒険家グランドスラムを世界最年少で達成!南谷真鈴の素顔を覗き見!

2017.6.19
見た目は女子大生、でもその中身はというと…。世界七大陸最高峰を日本人最年少で制覇した冒険家なのです。南谷真鈴さん20歳の偉業をたっぷりとご覧ください!
南谷真鈴

撮影中、鼻歌を歌ったり、ポーズを決めながら踊ったり。何とも自由で楽しげなこの女性の名は、南谷真鈴さん、20歳。早稲田大学政治経済学部に在学中の正真正銘の女子大生ですが、実は南谷さん、エベレスト(アジア大陸)、エルブルス(ヨーロッパ大陸)、デナリ(北アメリカ大陸)、アコンカグア(南アメリカ大陸)、キリマンジャロ(アフリカ大陸)、コジオスコ(オーストラリア大陸)、ヴィンソン・マシフ(南極大陸)の世界七大陸最高峰日本人最年少登頂記録保持者であり、さらに、北極点、南極点到達のエクスプローラーズ・グランドスラムを世界最年少20歳で達成するという偉業を成し遂げた、とんでもない女性なんです!

――世界七大陸最高峰を目指した理由を教えてください。

南谷:
「自分の意思で決めたことを自分の力でやり遂げたかった」とか「やったことがないことをやってみたかった」などたくさんの理由があるけれど、「南谷真鈴になるため」というのが最大の理由です。

――というのは?

南谷:私は日本人の両親のもと神奈川県に生まれたのですが、父の仕事の都合により1歳半でマレーシアに渡り、その後、中国、香港といろんな国に住んでいろんな学校に通いました。中国では、日本人は酷いというハードな反日教育が毎日行われていて、私は自分が日本人であることも受け入れられなかったし、友人とは中国語で話して授業は英語、家に帰れば日本語で…どんどん迷っていきました。その後の香港に移ってからも環境の違いから、私のアイデンティティは失われ続けて。目を閉じれば前も後ろも真っ暗で、居場所がわからないどころか、自分が誰なのかもわからない精神状態でした。

そんなある日、アナログのコンパスと地図を持って山を登るという学校行事に参加しました。一歩一歩山を登っていると、不思議なことにこんがらがった糸がほどけていくように感じ、それまでの迷いや、心の騒音はどんどん消えていった。それが山との出合いでした。

――それはとても運命的な出合いでしたね。

南谷:そうなんです。どの国で育ったとか、どこで勉強したかなんて私にはそれほど重要じゃなくて、足が靴に入っているところが私の居場所なんだ、と思えるようになり、心にコンパスを持つことができたんです。

その後、13歳でネパールのアンナプルナのベースキャンプまで登った時、山脈の合間から壮大なエベレストが見えたんです。その時、香港の、丘みたいな小さい山でもいろんなことが学べたのだから、あの世界で一番高い山に登ったらどんな景色が見えて、何が学べるんだろうってワクワクしました。何としてでも登りたくなってしまって、13歳の自分に「いつか絶対にエベレストに登る」と約束しました。

そうして、自分が自分になるために、エベレストに登るのは今だ、と決心したのが、17歳の時。大人になるための私の一大プロジェクトの始まりでした。

――最初から日本人最年少登頂を狙っていた、というわけではなかったんですね。

南谷:私、将来結婚もしたいし子供も欲しいんです。でももし子供がいてエベレストなんかに登りに行ったら、死ぬかもしれないのに無責任だなって思い、人生でやりたいことを並べて、逆算してみたら、“今”だったんです。

南谷真鈴

――すごい決断ですね。資金集めから一人でやられたそうですが。

南谷:
そうなんです。その後、今から準備をして19歳までに登れば、最年少記録を更新できると知り、「南谷真鈴と申します。必ずエベレストの日本人最年少記録を更新するので、サポートしてください!」って、いろんな企業にメールをしました。そうしてできる限り働きかけ、いろんな人を紹介してもらって、スポンサーになってくれたのが、ユニクロでした。

――エベレスト登頂を目指していたのに、七大陸最高峰制覇とは、どういう経緯だったのでしょうか。

南谷:エベレスト登頂には、トレーニングのために実際にいくつもの山を経験したり、精神力を鍛えることが必要です。だから、トレーニングの一環でキリマンジャロ、モンブラン、マナスル…と世界のいろんな山を登っていたら、あれ? 七大陸最高峰の半分ぐらい登っちゃってた、と気づいて。その後、南極大陸に行った時に、せっかく南極にいるのに南極点に行かないのはもったいないとスキーで行ったんですが、あれ? もし北極点にも行っちゃえば、七大陸最高峰制覇だけじゃなくて、エクスプローラーズ・グランドスラムも終わるじゃないか、って。それで北極点に行っちゃいました。

――いやいや、さらっと話していますけど…(笑)。ものすごいことをやり遂げてますよ。

南谷:あははは!(笑) でも、自分でやってみてわかったのが、本当に何かやりたかったら、それに向かって本気で走り出せば、どんどんいろんな人を巻き込んで夢が広がっていくということ。まるでドミノ倒しのように、私の夢は実現していったんです。だから、エクスプローラーズ・グランドスラムが終わった時は、あれ? こんなにあっという間だったの? って自分でもびっくりしたし、それにしても、ずいぶん遠くまで来ちゃったなって、しみじみ。

――とはいえ、著書『自分を超え続ける』にもありましたが、かなり危険な目にも遭ってますよね。

南谷:高校卒業直前に、長野にある阿弥陀岳に登った時でした。さっと登って降りる軽い練習の気持ちでしたが、登頂した時間が遅く、急いで下山する最中に私は足場の雪ごと崩れて滑落する事故に遭ってしまいました。真っ逆さまに落ちながら「神様助けて、まだ死にたくない!」と叫んだら、不思議なことにそこでピタッと私の体が止まったんです。本当に神様の手によって止められたみたいに。その後、雪に穴を掘った場所で寝袋にくるまり、一人で夜を過ごして翌日救出されたのですが、奇跡的に無傷で。ただ落ちたのは10mぐらいだろうと思っていたら、東京タワーぐらいの高さから落ちたと聞いて、びっくりしました。

――東京タワーって! 想像を超えてます。ご無事でよかった。

南谷:デナリでは標高6000~7000mのところで風速220 mの風が吹き荒れる凄まじい嵐に遭うという経験をしました。何日も体でテントを支え続けて体は痛いし寒いし、酸素は薄いしで、まさに生き地獄。そのうち食料が尽きて、昔の人が雪の中に埋めておいてくれたエネルギーバーを掘り出して食べて。賞味期限は2000年に切れていましたけど。嵐は9日間続き、10日目にやっと山頂目掛けてアタックを再開したんですが、頂上まであと100mのところで全員が戦意喪失して下山しました。デナリって、麓から頂上までの高低差から見ると世界で一番高い山といわれています。冒険家の植村直己さんが亡くなった山でもあるんですが、山頂まであと100mといっても3時間はかかる。嵐を耐え抜いた私たちには、3時間登ってから下山できる自信はありませんでした。でも、デナリ登頂は私にとって、七大陸最高峰制覇の最後の山だったので、悔しくて苦しくて。0m地点まで下山した時は、人生で一番泣いたんじゃないかな。翌日、目がゴルフボールみたいに腫れました。

――嵐を耐え抜く辛さや、頂上を目前に下山する悔しさは、チームでしかわかちあえませんね。

南谷:いいえ。わかちあいませんよ。

――そのためのチームなのでは?

南谷:違います。誰が悲しいとか辛いとか、個人の気持ちなんてどうでもいい。全員が安全に登って降りてくるためのチームなんです。だから体の強い人が、弱っている人の荷物を持ってあげるのがルールなのですが、それも、1人が遅れるとチームみんなが遅くなるという理由から。この時、屈強な男性たちが揃う中で私は、エベレストを登り終えた直後で高度順応もできていたし、体も強かったからみんなの荷物まで持ったし、一番重いそりを引っ張っていました。それがチームなんです。個人の理由や年齢、性別なんて関係ない。たとえば嫌いな人の荷物だって持つんです。とにかく下山2日後、私は再びデナリの登頂にチャレンジして、ようやく、七大陸最高峰を制覇することができました。

――2日後? エベレストにも登ったばかりだったんですよね。

南谷:正確に言えば、デナリの約5か月前にカルステンツ・ピラミッド、その翌月にエルブルスの登頂に成功し、下山2日後にエベレストに登り始めて登頂に成功。下山した10日後から、デナリが2回。

――精神力も凄まじいですね。

南谷:よく強いねって言われるけど、自分ではセンシティブだと思ってます。だって、七大陸最高峰制覇して日本に戻ってきたら、大学の残り1学期だけで1年分の単位を取らなければならなくて、それこそ本当に大変でツラかった! しかも、その最中に好きな人に世界観が違うと言われてフラれてものすごく落ち込んでいて、泣きながら単位を取りました。でも仲のいい友人が毎日家に来て数学を教えてくれたり、ごはんを作ってくれたりとサポートしてくれたからこそ、頑張れたんです。友人と山のチームメンバーは全然違います(笑)。

※『anan』2017年6月21日号より。写真・野呂知功(TRIVAL) インタビュー、文・若山あや

(by anan編集部)

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