会社を辞めて、こうなった。【第20話】 50年間サンフランシスコのど真ん中で、無料で食べ物を配り続けるツリーさん。

2015.7.28 — Page 1/2
カリフォルニア州・オークランドにあるギャングの巣窟で家を開放するパンチョとサム。彼らに出会い、“ワタシサイズ”のギフト生活から始めてみようと思った筆者・土居は、彼らのヒーローだというひとりの男性に会いにいくことになりました。

長年勤めた出版社を辞めて、なんの保証もないまま単身アメリカに乗り込んだ女性が悩みながら一歩一歩前進して、異国の地で繰り広げる新鮮な毎日を赤裸々にレポートします。

 

【第20話】50年間サンフランシスコのど真ん中で、無料で食べ物を配り続けるツリーさん。
カリフォルニア州・オークランドにあるギャングの巣窟で家を開放するパンチョとサム。彼らの自宅滞在中に今の自分が出来る、“ワタシサイズ”のギフト生活から始めてみようと思った私です。そして彼らのヒーローだというひとりの男性に会いにいくことになりました。

ツリーさん!

50年以上も食を無料で提供し続けているツリーさん。(写真・宇井裕美)
50年以上も食を無料で提供し続けているツリーさん。(写真・宇井裕美)

向かった先は、サンフランシスコ・ミッション地区。ここはもともとヒスパニック系移民が生活の場としてきたエリアですが、近年はGoogle、Twitterなどのテック系住民が移住して地価が大高騰、トレンドスポットとしても話題の場所です。人気ベーカリー「タルティーヌ・ベーカリー」には大行列が、そして昔なじみのメキシカン商店なども立ち並ぶ賑やかな街です。通りを何ブロックか歩くと、ワイルドに成長した木々が垣根を越えて顔を覗かす、都会のエアポケットが。ここは“The Free Farm(フリーファーム)”と呼ばれる、誰でも入ってアクセスできるガーデンファーム。「都会のど真ん中にこんな立派な庭があったのか!」。半年間サンフランシスコで生活していましたが、全く知りませんでした。私が借りている部屋のオーナーもまた、40年以上サンフランシスコで生活しているけれど初耳だったと言います。

フリーファームに一歩足を踏み入れると、まず鬱蒼と生い茂った竹林に圧倒されます。さらさらという竹の音に耳をすませば「ここって本当にサンフランシスコのミッション地区?」と、とても穏やかな気持ちに。静かなときが流れる庭にはアーティチョーク、栗、アボカド、プラムにナッツと、食べられる植物もたくさん植えられています。世界で3本の指に入るほど地価が高いと言われるサンフランシスコのミッション地区。そんな場所でこれほど広大な庭を開放している人とは一体どんな人なのでしょう? 収穫した作物や肥料などもすべて無料で人に提供し、野菜や果物の栽培法も無償で教えているといいます。さらには毎週日曜日にこちらでの収穫物に加えて、近くの庭やさまざまなファーマーズマーケットなどから余った食べ物を集め、公園で無料配布しているとか。シリコンバレーが近いサンフランシスコだから、スティーブ・ジョブズのようなテック長者が一山当てた後、ギフトの世界へと転向したのでしょうか? 

リアルドワーフ登場?

18世紀には線路があった土地。竹林があるのはもともと線路沿いの壁だった場所。
18世紀には線路があった土地。竹林があるのはもともと線路沿いの壁だった場所。

そんな風に妄想していたときです。「こんにちは」と、ささやくような挨拶が聞こえました。声の主は、鮮やかな緑色のTシャツにオーバーオール、白い髭をたくわえるおじいさん。彼こそがフリーファームを始めたツリー(Tree:木)さんだと言います。しかしオーバーオールって60歳オーバーの強者こそが着こなせるファッションアイテムだったのですね! その完璧なハマり具合に圧倒され、思わず「『ロード・オブ・ザ・リング』のリアルドワーフですか?」とも思ってしまった不埒な私です…。さて、フリーファームは1974年、ツリーさんが友人とスタートしました。でも一体どのようにして始めたのでしょう? 土地を借りるにも維持するにも、膨大な費用と労力がかかると思うけれど…。 

「私は一度も仕事をしたことがありません。お金をもらって働いたことは無いんです」と開口一番にツリーさん。えっ? 現在67歳のツリーさん。働いたことはないとは言いますが、鋤で地面を掘ったり、大量の土を載せた一輪車を運んだりと手を休めることなく重労働をこなしていきます。そんなツリーさんですがサンフランシスコに来る前は、ロサンゼルスのドヤ街で食料を集めて無料で配っていたそう。そしてサンフランシスコの地を踏んだのは、約50年前の1967年。当時はヒッピー・ムーブメントのまっただ中です。発祥の地であるヘイトアッシュべリーで食料を無料で配っていたDiggers(ディガーズ)と言う人たちの活動に触発され、サンフランシスコへと向かったのです。

「ただお腹をすかせた人に食事を配りたかったんです。とにかくやりたいことだった、“人に食事を提供すること”を本能に従ってやり続けてきただけ。だからキャリアを積み重ねてきたというのとも違います」。お金のことも仕事のことも考えず、ただ自分の心に従って生きてきたと言います。

「どうして“食の提供”を50年以上も続けられてきたのかよくわからないけれど、ひょっとしたら自分の天命だったからかもしれません。私が大切にしてきたのは、自分の心が何に向かっているかということ。つまり、信念を生きることです。ただ必要な人に食料を配り、配る私たちも喜びを持って行っています。何も特別なことはしていません。苦しんでいる人がいれば、助けるという人間としての当たり前のことをしているだけ。それで今まで生きてこられました」

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